戦史②騎士道の時代から総力戦へ

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近世~第一次世界大戦

両軍が平野で向かい合う会戦が主流の時代は
明らかに下等と見られた異民族との戦いを除いて
まだ「戦争の美学」がありました。
中世は貴族や武士という戦士階級が戦争の主力であり、
戦争は儀礼的な面が強く牧歌的でさえありました。
戦士は日々腕を磨き、時には名誉のため決闘や一騎打ちが行われ
正々堂々と命の駆け引きが行われました。

Kawanakajima Takeda Shingen vs Uesugi Kenshin statue.jpg

photo: Qurren会話
Taken with Sony Cyber-shot DSC-U20 –

長野県長野市八幡原史跡公園川中島古戦場)に屋外展示。
以下、土台銘板より。
建立者 – 長野市、長野観光協会、川中島合戦両雄一騎討銅像建立委員会
寄贈者 – グリーンスタンプ株式会社
製作者 – 三井金属鉱業株式会社

建立日 – 1969年昭和44年)11月2日
日本著作権法46条/米国フェアユース, リンクによる

この中で騎士道、武士道と言う
戦士のあるべき行動模範が作られてきました。
しかし、文明の進歩はこの状況を変えていきます。

近世に入り、まず「フランス革命」によって
身分制度が無くなり「徴兵」が始まりました。
当時ヨーロッパでは貴族だけでなく戦力を補うために
国家に利害関係を持たない「傭兵」が広く使われていましたが、
戦いにおいては利害が直結する国民軍の方が士気が高かったのです。

David - Napoleon crossing the Alps - Malmaison1
ジャック=ルイ・ダヴィッド
「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」(1801)

またナポレオンは従来の「線」の横列戦術に代わって、
奥行きが加わった「面」縦列戦術を取りました。
縦列戦術は横列戦術に比べ正面火力が弱いですが、
戦力の厚みがあり、指揮系統も取りやすい陣形です。
密集横体は移動速度が遅かったのですが、
ナポレオンは散兵体形を取り、小規模の遊軍で陽動を行い
敵の前線が乱れたところで敵の弱点を縦列突撃で一点突破しました。
これは逃亡の可能性がある傭兵では取れない戦術でした。
国民軍と散兵戦術による機動力の組み合わせで
ナポレオンはヨーロッパにその名を轟かせます。

世界中でフランスに追随する動きが現れ、
近代国家において「徴兵」は当たり前になります。
日本においては明治維新と日清戦争にあたります。
現在の感覚と同様に徴兵への反発もありましたが、
国民国家の形成の中で違和感は無くなっていきます。
男の子は大人になったら軍人になるのが当たり前で
立派な大将になる事に憧れました。

次に「産業革命」によって大量生産、大量消費の時代がやってきます。
扱いやすい武器が出回り戦場の素人であった国民兵を補いました。
やがて技術革新は大量殺戮をも可能とします。
機関銃の発明などで
一人の新兵であっても歴戦の猛者十人を殺すことができるようになったのです。

Vickers machine gun in the Battle of Passchendaele - September 1917

当初の機関銃は重く陣地や要塞などで防御兵器として用いられました。
この新兵器の登場によって防御側優位の状況となり
ナポレオンの突撃戦法は通用しなくなりました。
日本は日露戦争で経験し203高地で大きな被害を受けました。
世界的には第一次世界大戦で本格的に運用されます。

戦いは機関銃の掃射を避けるため土を掘って進軍する塹壕戦となりますが、
塹壕は伸びきって膠着し、
夏に始まり、クリスマスまでには終わると言われた戦争は4年半も続きました。
衛生環境の悪い塹壕での長い生活から病死する人や、
セルショックというストレス障害も発生しました。

German stormtroops training Sedan May 1917 3.jpg
パブリック・ドメイン, リンク
Aerial view Loos-Hulluch trench system July 1917

そして、この塹壕を突破するため新たに戦車戦闘機
毒ガスなどの大量破壊兵器が発明されます。
戦場の花形だった騎兵は機械化された戦車に取って代わられます。

British Mark I male tank Somme 25 September 1916
ソンムの戦いに投入された英マークⅠ戦車

この頃海戦でも変化が起こっていました。
1900年ごろまで、戦艦は連装主砲塔2基(4門)が主兵装で、
あくまで敵艦水線部の装甲を破ることを主目的とし、
最終的に敵艦を沈めるためには接近戦で体当たりをする必要があったため
船首水線下に衝角という角がありました。
しかし、遠距離の砲撃で艦隊を無力化した日本海海戦の教訓から
イギリスは1906年に単一口径の連装主砲塔5基(10門)を備え
命中精度を上げて衝角を取り除いたドレッドノート級を開発します。

HMS Dreadnought 1906 H63596

従来型の戦艦2隻分の攻撃力を持つ
ドレッドノートの登場は世界に衝撃を与えます。
すごいという意味で使われる「弩級」という言葉は
この「ド」レッドノートから来ています。
以降、より強力で射程の長い大砲を積んだ大型戦艦が作られ
ド級、さらに超ド級戦艦が次々と開発されます。
これを大艦巨砲主義と呼び、兵器のインフラは止まらなくなります。
科学技術の発展は戦争をナポレオン時代の決戦戦争から
ひたすら国力を消耗する持久戦争にさせました。

世界大戦のこのような状況は銃後の生活にも影響を与えます。
ドイツはUボートによる無制限潜水艦作戦を取り、
大西洋を航行する軍艦のみならず
民需用や中立国船籍も含めた商船など無制限に攻撃を開始します。
これはルシタニア号事件を起こし
中立国だったアメリカの参戦を招くことになります。

この他、飛行機飛行船による都市爆撃も行われ
戦争は戦場だけでなく工場などの国内のインフラも標的になり、
兵士だけでなく、国力を支える一般市民も巻き込まれていきます。
この「総力戦」の過酷な状況は多くの戦争犯罪を生み
かつてあった戦争の美学やロマンは失われ、残酷な殺し合いとなるのです。

コメント

  1. patton より:

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    ●同レベルの文明圏の戦争は儀礼的な面が強く
    牧歌的でさえありました。
    これはどうかな。兵隊を持っていた織田軍と違ってほかの国は
    足軽などの兵隊は農村部から駆り出された兵隊だからな。
    3,4人で持つ長い槍を突き通して、
    いっぺんに何人殺せるかという研究もされていた。
    でも礼儀正しかったのは確かだ。
    関ケ原の戦いでもわざわざ収穫期を避けて行われた。
    見物人もいたぐらいだから、きわめて牧歌的と言っていいだろう。
    またおっしゃる通り明治の時代、富国強兵をうたった日本に対して
    「徴兵懲役一字の違い、腰にサーベル鉄鎖」と言って反発した。
    ●当初の機関銃は重く陣地や要塞などで防御兵器として用いられました。
    何分水冷式だから重かったのですよ。
    あと機関銃を塹壕のどこに置くかなんですが、正面に置いた場合、
    思ったほど威力を発揮しません。
    しかし横から狙うと弾が貫通して、敵に大打撃を与えることができる。
    これにいち早く気付いたのがドイツです。
    ドイツは正面でなく両脇に機関銃を置いたのです。
    また塹壕戦では上官専用の食事も皆で分け与えて食べた。
    このことからも塹壕戦のひどい食事事情が分かる。
    総力戦の一番の被害は本土が攻撃されることでしょう。
    それ以前の戦争は、他地で勝敗がついていた。
    ご存知の通り大艦巨砲主義は航空機主義にとってかわられました。
    アメリカのなんとかという人が提唱して実際に
    試験軍艦を航空機で沈没させたのですが、
    その後彼は軍法会議にかけられます。
    しかし時代は航空機主義にい至っており、
    大和も航空機で撃沈されました。
    この航空機主義に関して、日本にも提唱する人がいました。
    かの山本五十六です。
    大和の建造に反対した人物です。
    カーチス・ルメイは無差別攻撃を行いました。
    「戦争に負けていたら私は裁判にかけられていただろう」
    と言っています。
    それほど総力戦というのは国を転覆させる寸前まで追いやるのです。

  2. patton より:

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    なにこれ。
    認証用パスワード間違うと全部消えるのかな。
    あれだけの長文はもう書けないよ。

  3. 浮世亭まん丸。 より:

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    ��pattonさん
    牧歌的戦争はどちらかといえば
    中世ヨーロッパのイメージかもですね。
    「足軽」は「傭兵」に近いかもしれません。
    長槍の組織的な運用は一騎打ちとは正反対な戦法ですし・・・
    ドイツは常に戦術も最先端でしたね。
    ドイツが短機関銃を開発して
    前線の銃剣突撃は完全に無くなりました。
    大艦巨砲主義から航空機主義のくだりは次の記事になる予定です。

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