昭和維新

昭和維新とは、1930年代(昭和戦前期)の日本で起こった国家革新の標語。
陸軍皇道派などがスローガンに掲げていた。

226 Hi no Maru
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背景

日清日露戦争を経て軍事強国となることで欧州列強と肩を並べるに至った日本であったが
国内政治・経済の基盤はまだ貧弱であった。
明治維新以来、日本は「富国強兵」をスローガンに掲げていたが、
軍事力強化が優先されてきたことで「富国」の土台となる国民生活が犠となっていた。
こうした国民の声を政治に反映させるため、
1910年代から1920年代(大正年間)に
民主主義の発展や自由主義的風潮が起こり(大正デモクラシー
1925年、加藤高明内閣にて普通選挙法が確立され、議会制民主主義は一応の完成を見た。

Kagayama mogas
大正デモクラシーを象徴するモガたち

しかし、関東大震災世界恐慌による経済の悪化
ソ連の誕生、排日移民法
張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、
1930年代に軍部急進派や右翼団体を中心に、
明治維新の精神の復興天皇親政を求める声が急速に高まった。

Ryounkaku destruction Great Kanto earthquake
徳永柳州 「第一震十二階の倒壊」(1923年頃) 東京都慰霊堂所蔵

政党政治批判と統帥権干犯問題

第一次世界大戦後の1920年に国際連盟が作られるなど
世界は平和共存に舵を取り、
膨大に膨れ上がる軍事予算に歯止めをかけるために
1922年に世界最初の軍縮会議ワシントン会議が始まり、
英:米:日:仏:伊がそれぞれ5:5:3:1.75:1.75の割り当てになるなど
戦勝国が足並みを揃えて戦艦、空母の保有量の調整を行い
続いて1930年にロンドン海軍軍縮会議が行われ、
巡洋艦以下の補助艦の保有数も調整された。

日本はいずれも対米英7割を求めたが、叶わなかった。
ロンドン会議では0.025割を削り
対英米6.975割とする妥協案をアメリカから引き出せたとして国内批准に至ったが、
内容の不満からフランス、イタリアが部分参加にとどまったのに対して
希望量に至らずに調印したことについて
マスコミや野党から濱口内閣に対する批判が上がり、
大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を引き合いに
政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を
天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反
だとする、
「統帥権干犯問題」を提起した。
1930年、濱口雄幸首相は東京駅で右翼から銃撃を受け執務不能となり、
翌年にその傷がもとで死去する。

この問題は後の満州事変など
軍がシビリアンコントロールを失うきっかけとなった。
明治憲法に限界が来ていることは明らかであったが、
昭和維新の志士たちは政治的停滞や経済的困窮の原因を政党政治財閥とし、
内閣は天皇を外界から遮断していると考え、
天皇親政実現のため、5.15事件2.26事件など
政府要人に対するテロ事件を起こした。
外交的には満州派と同様に反共主義でソ連を仮想敵としていた。

海軍の5.15事件

政府が主導した軍縮会議は海軍に反発を与えた。
海軍内部では条約受け入れやむなしとする「条約派」(海軍省)に対して
伏見宮博恭王、加藤寛治を中心に条約に反対し、
東郷平八郎をシンボルとして軍拡を図る「艦隊派」(軍令部)ができた。

1930年のロンドン軍縮会議は若い海軍青年将校たちの反発を招き
国家革新運動の海軍側の指導者であった海軍少佐、藤井斉
条約を締結した当時の日本全権、若槻首相の襲撃を試みるが、
目標の若槻首相は選挙大敗の責任を持って退陣、新たに犬養内閣が組閣された。
しかし、志半ばで藤井が中国で戦死したため
同志であった三上卓古賀清志らは藤井の遺言をきっかけに
1932年、5.15事件を決行し、首相官邸に押し入り、犬養首相を襲撃した。

Inukai Tsuyoshi
「話せば分かる」と最後まで言論で説得を試みた犬養毅
Taku Mikami
青年日本の歌を作詞し、犬養毅を襲撃した三上卓

当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが
1929年の世界恐慌に端を発した大不況により
企業倒産が相次いで社会不安が増していた。
犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に
1932年2月の総選挙で大勝をおさめた一方で
満州事変を黙認しており陸軍との関係も悪くはなかった。
もともと軍縮会議に反対して統帥権干犯で政府を追求したもの犬養だった。
しかし、孫文との個人的友好関係から
中国大陸から手を引くかもしれないという可能性が
最終的に狙われる原因になったとも言われている。

OKAWA Shumei
志士たちのパトロンだった大川周明

この事件の思想的指導者とされたのが思想家の大川周明である。
大川周明はインド独立を支援していたアジア主義の思想家で、日蓮主義であった。
5.15事件は海軍の組織的犯行ではなく、
一部の海軍青年将校らと民間人によるテロ事件であり、
実行犯は大川から武器や資金援助を受けていた。
計画では東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、
その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行うというものであったが、
計画が二転三転した。
事件の経緯から艦隊派も世論も首謀者に同情的で、
この事件に関して死刑者はゼロ、しかも恩赦で求刑よりも早期に釈放された。

三上卓は右翼の代表人物として戦後も生き残り、
1961年の三無事件にも関与し
戦前戦後を通してクーデター未遂事件を引き起こし、
1970年の三島事件に影響を与えた。
大川周明は戦時中、大東亜共同宣言の作成に関わり、
東京裁判では民間人として唯一A級戦犯として起訴されたが、
精神異常と診断され裁かれず、
晩年はコーランの翻訳などイスラム教に傾倒した。(日蓮主義とイスラム~川内康範ヒーロー~

5.15事件によって大正デモクラシーは終焉。
政党政治は斜陽を迎え、以後軍人内閣が続く事になる。
首謀者の一人、海軍中尉の三上卓は
「青年日本の歌(昭和維新の歌)」を作詞作曲し、
その後も昭和維新を目指す陸軍将校などに歌い継がれることになる。

陸軍の2.26事件

陸軍でも第一次世界大戦後、海軍同様軍縮が行われた。
加藤高明内閣において陸相を務めた宇垣一成
予算算出という名目で地上兵力から4個師団約9万人を削減したが、
その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、
歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど
軍の近代化を推し進めた。(宇垣軍縮)
宇垣は観戦武官として第一次世界大戦を目の当たりにして
総力戦に対する日本の遅れを痛感していた。

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軍縮を進めた宇垣一成

一方、シベリア出兵時にシベリア派遣軍参謀だった荒木貞夫
革命ロシアの混乱・後進性と同時に
赤軍の鉄の規律や勇敢さに驚かされた。
荒木はソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、
シベリア周辺から撃退して、
ここを日本の支配下に置くべきであるという思想を持っていた。

Araki Sadao
皇道派のシンボルだった荒木貞夫

犬養内閣で陸相となった荒木は陸軍を掌握し
思想の近い人物を要職に招き、
反対する者は左遷するという露骨な人事を行った事で
陸軍内部で軍拡路線で天皇親政を目指す「皇道派」が形成され、
宇垣路線を引き継ぎ合法的に防衛国家を目指す「統制派」
激しく対立する派閥構造が生まれた。

当時の陸軍は貧しい農家の出が多く、
皇道派の青年将校たちは
農村の娘を身売りに出さなければならない経済状況を憂いていた。
そんな中で財閥や一部政治家ら特権階級に対する憎悪が高まり、
「尊皇討奸」を合言葉に1936年、
明治維新の精神に戻り、天皇親政を目指す2.26事件を引き起こした。

Rebel troops in February 26 Incident

この事件は5.15事件と違い
陸軍皇道派が積極的に関わったクーデターであり、
荒木と並ぶ皇道派の大物、真崎甚三郎は海軍艦隊派の加藤寛治とも親しく
事件発生の朝、昭和天皇の弟でもある伏見宮と三人で協議を行うなど、
昭和維新実現のため背後で根回しがされており、作戦はほぼ成功していたが、
海軍大将の岡田啓介総理が襲撃を生き延びており、
肝心の昭和天皇からは逆賊であるとして反乱軍の烙印を押され、
青年将校に同情的だった伏見宮も天皇の叱責を受け以後鎮圧に働き、
クーデター後の首相ポストと見なされ、
青年将校が慕っていた真崎も動かなかったため、
青年将校たちは行動目的を失い、下士官兵を原隊に戻し投降した。
もし、クーデタが成功していたら
天皇を頂点としながら国家社会主義のナチスドイツのような
ファシズム体制になっていた可能性が高い。

Masaki Jinzaburo
真崎甚三郎の裏切りに青年将校は落胆した。

青年将校たちの理論的指導者とされたのが、思想家の北一輝である。
明治憲法の天皇制に反対した社会主義者であったが、
彼も信仰深い日蓮主義者だった。

Kita Ikki
日蓮主義の思想家北一輝

北は大本教の出口王仁三郎にクーデタの資金提供を呼びかけたこともあり、
左翼的革命に対抗するため、宗教の垣根を越えて右翼的国家改造を主張した。
国家社会主義を謳う北の思想に貧しい青年将校たちは刺激されたのである。

5.15の首謀者が比較的軽い刑罰だったため処分も楽観視されていたが、
関係者のほとんどが死刑という厳しいもので、
事件に大きく関与した大川周明とは対照的に
北一輝は事件に直接関与してないにも関わらず、
民間人でありながら軍法会議にかけられ処刑された。
一方、真崎甚三郎は事件の黒幕と見なされ、関与を疑われたが無罪となった。

事件以降、事件を関与した退役軍人を排除する名目で
軍部大臣現役武官制が復活し、
陸軍大臣と海軍大臣は現役軍人の中将以上に固定され、
皇道派は予備役に追いやられ、陸軍の中心から追放される。
東条英機は現役軍人で総理大臣となり、
彼ら統制派の主導のもと、対米戦争に突き進んでいく事になる。

当時、皇道派は逆賊として厳しい非難にあったが
戦後、昭和天皇は統制派にたぶらかされたとして、
討伐を「若気のいたり」と反省しており、
真崎の長男を自身の英語通訳に付かせている。

日本改造法案大綱と日本国憲法

北一輝は左翼的革命に対抗して
右翼的国家主義的国家改造をやることが必要と考えており
大日本帝国憲法下の「天皇の国民」では無く、
国民の天皇であるべきとし、
天皇と国民一体の民主主義を実現するべく、
その障害となる特権的官僚閥や軍閥を追放し、
天皇に指導された国民によるクーデターを訴えた。

皇道派のバイブルであった日本改造法案大綱では
天皇により3年間憲法を停止し、両院を解散、戒厳令をしき、
成人男子に普通選挙権を与え、議会と内閣を設置。
華族制度と貴族院の廃止を掲げた。

経済に関しては莫大な富の過度な集中を禁じ、
主要産業については国家が適切な調整を行い、
全ての者に私有財産権を保障するなど、
私有財産に一定の上限を設け、
社会主義と資本主義の折衷的な政策を打ち出した。

出自や家庭環境にかかわらず全児童に普通教育を与え、
利潤配分と土地配分とによって労働者・農民の自立を半ば可能とし、
家のない者、貧民、不具廃病者への援助を提唱している。
また、労働者の権利保障・育成、労働省の設置など
国民教育の権利と人権保障の強化を強調している。

当時としてかなり急進的な内容だったが、
戦後、GHQ主導で作られた日本国憲法
象徴天皇の実現や華族制度と貴族院の廃止、
国民主権や言論の自由、基本的人権の保証など多くの部分で一致する。
昭和維新の志士たちの多くは抹殺されたが、
戦後民主主義の時代になってその理想が実現したというのは実に興味深い。

Memorial February 26.jpg
処刑が執行された旧東京陸軍刑務所敷地跡に建つ二・二六事件慰霊碑
(出典:Goki)
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