手塚治虫の沖縄

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辺野古移設と沖縄USJ誘致

愛・地球博記念公園がジブリパークに生まれ変わり、
2020年代初頭にオープンすることで
ジブリと大筋合意したというニュースを聞いて
思い出すのは沖縄のUSJ誘致である。
翁長知事になって以降、
辺野古基地移設問題で、沖縄県と日本政府の対立が表面化した。
こうした中で日本政府は沖縄にUSJを誘致した。
大阪のようなハリウッドをテーマとしたものではなく、
沖縄の海をメインとした自然がテーマのパークの予定だった。
これは自然保護の観点から辺野古移設に反対し、
基地産業ではなく観光産業を訴える翁長知事に取っても悪い話ではない。

日本政府が翁長陣営を揺さぶるためのアメという冷静な見方もされたが、
実際沖縄北部には美ら海水族館以外に観光の目玉となる大型施設がないし、
県民の期待も大きかったため、翁長知事も歓迎するしかなかった。
しかし、シンガポールのユニバーサルスタジオや上海のディズニーランドなど
アジアの同様のテーマパークと競合するという理由で
結局撤回となってしまった。

沖縄USJ誘致のニュースを聞いた時から
「米軍基地が去ってもまたアメリカではないか」
心情として如何なものかと思った。
もちろん背景には米軍のプレゼンスが低下しても
アメリカ資本を沖縄に置くことで引き続き影響力を残し、
中国に対する抑止の効果を狙っているのは理解したが、
個人的にはアメリカではなく、
日本発のキャラクターテーマパークを作る方が良いと考えた。
日本のキャラクター産業、
ソフトパワーはディズニー、ハリウッドにも劣らない。

手塚治虫ランドの構想

USJ誘致撤回の理由が同様のパークの競合にあるのだから
既存のパークとの差別化を探れば良いのである。
日本発のキャラクターテーマパークは
既にジブリの三鷹の森美術館やサンリオのピューロランドなどがある。
出版社やテレビ局などの垣根を越えて
様々なマンガアニメキャラでテーマパークが作れれば理想だが、
版権の問題で難しい。
単一のコンテンツでディズニーに匹敵する日本のキャラクターを考えると
やはり手塚キャラ以外に思いつかないのである。
「沖縄手塚ランド」を個人的には推したい。
手塚治虫であれば代表作も多く、キャラクターも豊富であり、
ウォルト・ディズニーに十分対抗出来るだけのコンテンツはある。

実は手塚治虫ランドの構想は既にあった。
都心に近い川崎市の浮島地区に
「手塚治虫ワールドかわさき」という名称でアトム誕生の2003年完成を目指し、
手塚プロダクション主導で進められていた。
当初はTDR(48ha)の二倍規模、100ha以上の敷地面積で、
アニメーションの制作スタジオやデジタルソフト専門学校、
医師でもあった手塚氏にちなんで、小児科病院、
図書館を始めとする教育施設も作られるなど、
年間1000万人の入場者を見込んだ大規模な構想だった。

しかし長引く不況を受けて規模はドンドンと縮小し、
アトラクション型テーマパークではTDRに勝てないとの見込みから
手塚キャラを前面に押し出しながら
情報技術(IT)やロボットの先端技術を紹介する展示を加えて
「21st Century Park in Kawasaki」に名称を変更し
2007年オープンを目指したが、
最後まで事業主体か決まらず、結局白紙に戻された。

アクアポリスが繋いだ手塚と沖縄

沖縄であれば都心のディズニーと競合はしないし、
何より川崎での構想段階からディズニー的なアトラクション主体ではなく、
自然を生かした散策路を作るとされており、自然が残る沖縄は理想的な地である。
また手塚治虫と沖縄の縁もある。
1972年の沖縄返還後の日本本土復帰事業として
1975年に沖縄海洋博覧会が行なわれたが、
大阪万博の太陽の塔をデザインした芸術家の岡本太郎のように
海洋博のシンボルであった人工島「アクアポリス」
この展示プロデユーサーとして手塚治虫は参加した。

Expo75 Logo
(出典:Gio von Gryneck)
Aquapolis 1977
(出典:国土交通省)

未来型海洋都市のモデルとされたアクアポリスは
半潜水型浮遊式という構造をなすことから
世界でも例を見ない施設として注目されていたが、
太陽の塔が博覧会終了後も人々に愛されてきたのと比較して、
アクアポリスはぞんざいな扱いを受けてきた。
海洋博終了後、アクアポリスも海洋博のシンボルとして残されていたが、
徐々に客足が遠のき、人々の記憶から忘れ去られ、
錆が進んだ構造本体に一般客を入れることが危険な状態になったため、
1993年に閉館。
その後も再開発計画が進まず放置され続け、
2000年に米国企業に売却され、上海に曳航さた。

太陽の塔は岡本太郎によるもので外観もまさに芸術作品であるが、
アクアポリスは政府主導で、
手塚治虫はあくまで内部の展示プロデュースに過ぎない上に
予算削減により、可動する予定のタコのオブジェも動かないなど
手塚治虫にとって満足のいく仕事ではなかった。
芸術家と漫画家の待遇の違いが垣間見れるエピソードであるが、
手塚と沖縄を繋げたことは後の創作に大きな影響を与えた。
手塚治虫は海洋博終了後も度々沖縄を訪れ
1979年の24時間テレビ 「愛は地球を救う」内で放送された
「海底超特急マリンエクスプレス」などのイメージに繋がっていった。
ブラックジャックの最終回でも自然保護をテーマに沖縄を取り上げている。

政府主導で一度は沖縄再開発のスタートと期待されたアクアポリスであったが、
こうした事からも沖縄に手塚治虫ランドを作る意義、
政府がバックアップすべき事情も十分にあると思われるが、
2005年に西新宿の手塚治虫ワールドエンターテイメントスクエア
2011年にKYOTO手塚治虫ワールドと相次いで関連施設が閉館している
手塚プロダクションにテーマパーク構想はまだ残っているだろうか?

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