遣隋使と白村江の戦い

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冊封の離脱

遣隋使はヤマト政権が倭の五王による南朝への奉献以来
約1世紀を経て再開した朝貢使だった。
その目的は、東アジアの先進国である隋の文化を学ぶことだったが、
記紀における三韓(馬韓・弁韓・辰韓)征伐の記述に見られるように
南朝鮮の影響力維持の意図もあった。

第一回の遣隋使の際、
隋の初代皇帝、楊堅が日本の使者に日本の政治風俗について尋ねると

倭王は、天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。
天未だ明けざる時、出でて政を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停めて弟に委ぬ

と答えた。

これは謎かけであり、その答えは「明けの明星」である。
皇帝を天=北極星とするなら倭王は明けの明星=金星であり、
明けの明星は太陽よりも先に姿を現すことから、
皇帝よりは下だが、他国の王(太陽)よりは上だと主張したのである。
しかし、皇帝は謎かけに気づかず、
日没時に政治をして日が昇ると弟に任せるという
日本の政治は理解不能だとして戒めたとされる。

二回目の遣隋使では小野妹子がより直接的な

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・・

という有名な書き出しに始まる国書を手渡す。

太陽の動きは単に東西の方角を表すだけでなく、
自国を世界の中心に置く中国の世界観を否定するものだった。
皇帝と同じ称号を使うことで対等の国家であることを、
日出ずる処、日没する処という
仏教用語を使うことで冊封からの離脱を宣言した。
第2代皇帝、煬帝は
東夷に過ぎない倭王が「天子」と自称したことに憤慨したとされる。
当時の常識では天子は中華皇帝を指し唯一無二の存在であった。
しかし、朝鮮半島の高句麗への出兵を控え、
高句麗と倭国が結びつくことを警戒して、
海を隔てる日本に直接手を下すことはなく黙認状態となった。

Sui Yangdi Tang
Prince Shotoku

その後、皇帝の許可を得ずに一方的に国号を「倭」から「日本」に変更、
皇帝に勝るとも劣らない称号である「天皇」号を使い始めた。
また大化の改新など、
現在の平成に繋がる日本独自の元号も使われるようになった。
この飛鳥時代は中国の政権が隋から唐に変わる時期であり、
百済から仏教が持ち込まれたこともあって中華思想に違和感を持ち始め、
遣唐使の頃には日本は完全に冊封から抜けた

白村江の戦い

そして、東アジア情勢に決定的な影響を与えたのが白村江の戦いである。
当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国時代であった。
この三国は唐に朝貢していたが、
国境を接する高句麗に対応するため、唐は新羅と同盟を結んでいた。
新羅は朝鮮半島の統一を企て、百済に侵攻を開始した。
新羅の要請により唐も加勢し660年に百済は滅亡した。

百済は朝鮮半島における日本の友好国であったため、
日本は百済再興を目的として百済の残存兵力と共に朝鮮半島に出兵し、
ついに唐と正面から対峙することになる。
この白村江の戦いは二年ほど互角に戦ったものの日本・百済連合が敗北。
百済は完全消滅し、日本は朝鮮半島における足がかりを失い
九州筑紫に水城を作り、防人をおいて唐の侵攻に備えたが、
唐は日本に侵攻することなく、高句麗を攻めて
朝鮮半島は新羅によって統一されることになる。

敗戦後、日本は遣唐使によって唐と関係を改善し、
唐の優れた文化や制度は藤原京や平城京、平安京へと受け継がれたが、
9世紀になると唐の衰えと民間交易の発展から遣唐使を送る意義を失い
894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止された。
その後、明の時代まで、
長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった
遣唐使廃止後、国内では日本独自の国風文化が広がり、
日本は中華世界から離れ、島国として独自の歴史を歩み、
日本人のアイデンティティーを確立していくことになる。

一方、「朝鮮」という国号も中国皇帝によって名付けられるなど、
地続きの朝鮮半島は以後、中国の王朝が交代する度に服属する
中国の属国という状態におかれ、
日清戦争で日本によって独立を与えられるまで冊封を続ける事になる。
現在の韓国においても強者に従う事大主義は健在である。

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