日本近代史④~ロシアの恐怖~

日清戦争での日本の勝利は欧米でも衝撃を持って伝えられました。
欧米では広大な大地かつ豊富な資源を持つ清に比べ、
資源が少なく小さい島国日本には勝ち目がないと思われていました。

西洋化を進める日本には概ね好意を感じていましたが、清に比べ関心は少なかったのです。

日清戦争後の日本周辺地図

下関条約により、朝鮮の独立が認められ、日本は清から台湾遼東半島を獲得。
紛争のあった南の国境もこれで確定しました。
そして膨大な賠償金は軍備の近代化に回されました。

西洋列強は近代日本に賞賛を送ります。
その一方で日本がこのまま成長し、自国権益を脅かすのではないか?
という黄渦論がドイツ中心に沸き起こります。
中世のモンゴル帝国の悪夢が白人たちの頭を過ります。

ロシアは日本の遼東半島領有に異議を唱えます。
「北京に近すぎで朝鮮の独立を有名無実にする」という名目で
ドイツとフランスを誘って日本に遼東領有を放棄させ、
清に返還するように要求しました(三国干渉)
ロシアの本音は満州の利権を確保したいので遼東半島に進出する日本が目障りだったのです。
ヨーロッパでのロシアの南下を危惧するドイツ、フランスにとっても
ロシアを極東にくぎ付けておけば自国に有利だと考えていました。
日本はイギリス、アメリカを誘って三国干渉に対抗しようとしましたが、
両国が中立を守ったため、日本はロシアの要求を呑むことになります。
日本では「臥薪嘗胆」のスローガンが流行します。

一方、負けた清では植民地化がさらに進みました。
列強は対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地を獲得していきました。
威海衛→イギリス 膠州湾→ドイツ 広州湾→フランス
そして日本が手放した遼東半島含む関東州は遼東返還の見返りとしてロシアが租借しました。

租借地とは一定期間他国に土地を貸す事で
潜在的主権は清にあるが実質的統治権は借りた国が持つというもので
実際には植民地同様に扱われました。
租借期限は一般に99年に設定されました。
99という数字が中国語の久久(=永久)と同音であることから、
これらの租借は永久租借すなわち事実上の割譲を意味しました。

ロシアは戦わずして、日本の権益を奪い
濡れ手で粟の状態で不凍港を手に入れてしまいます。
ロシア領土から遼東半島にかけて鉄道権を握り満州一帯に影響力を広げていきました。

そこへ遅れてきたのがアメリカでした。
日本を開国させたアメリカでしたが、ハワイ併合や米西戦争による
グアム、フィリピン獲得など太平洋の岸から西へ太平洋の国々を占領している間に
中国は西から来た欧州の列強によって分割されつくしていました。

アメリカは門戸開放を要求します。
中国大陸において一国による独占権益を作らず機会均等、自由貿易を主張しました。
名目は立派でしたが、要するにアメリカも他国同等の中国利権を狙っていました。
欧州各国は黙認しましたが、初めて海外権益を獲得した日本のみ異議を唱えました。
中国と国境を接し、三国干渉で痛い目にあった日本にとって
アメリカの要求は容認できませんでした。

1900年、北京で義和団の乱が起こります。
義和団は扶清滅洋を掲げます。
清王朝を助け、外国勢力を追い出そうとしました。
大陸に権益を持つ列強諸国が共同で鎮圧のため兵を送ります。
国境の近いロシアと日本の兵数が圧倒的でした。
中国支配の困難さを実感した列強は義和団事件を機に中国侵略に消極的になりますが、
国境を接する日本とロシアは事情が違いました。
ロシアは乱が終わった後も中々兵を引かず、領土的野心をあらわにしました。
日本の次の相手は決まっていました。

Troops of the Eight nations alliance 1900
義和団の乱に参加した各国兵士
(右から英、米、英豪、英印、仏、独、墺、伊、日)

そして下関条約で清の冊封から解放された朝鮮ですが、
日本が思い描く改革はなかなか進みません。
朝鮮民族にとっては与えられた独立でした。
しかも三国干渉によって影響力の低下した日本を横目に
清に代わる宗主国を日本ではなくロシアに求めようという動きが起こります。
内政にロシアが介入し、ロシア派のクーデター(閔妃)が起こります。

これは朝鮮の独立、近代化をさらに困難にさせていました。
朝鮮には伝統的に主体性を持たず強い国に従属しようとする事大主義がありました。
朝鮮で近代化が失敗し、ロシアが満州を越えて朝鮮半島にまで手を伸ばせば
日清戦争は全く無意味になります。

危機感を持った日本は同じく大陸でロシアと利権を争うイギリスと同盟を結びます。
(1902年日英同盟)
イギリスは19世紀に世界の覇権を完成させ、世界中に植民地を持つ唯一の超大国でした。
日英同盟は近代日本にとって安全保障上非常に重要な関係でした。

資金調達に苦労していた日本は開戦を避けてロシアと同盟を結び、
満州をロシア勢力下、朝鮮を日本勢力下として互いに認め合って和平する動きもありましたが、
イギリスと同盟を結んで資金調達にめどが立ちロシアを討つ決断をします。
1904年、日露戦争の勃発です。日清戦争終結からわずか9年の決断でした。

遼東半島の旅順港はロシア太平洋艦隊があり、日本の海上輸送を脅かす存在でした。
日本はまず旅順港を奇襲し艦隊の封じ込みに成功しますが、
決定打を与える事が出来なかったため、陸上で旅順要塞を攻略する必要がありました。

旅順要塞は難攻不落と言われ、当時の新兵器であった機関銃を備え、
日本兵の突撃を無力化し、大量の死傷者を出し、激戦になります。
203高地の戦いが特に熾烈を極めました。
機関銃の有効性が認められ、ナポレオン戦争以来主流だった突撃戦法は過去のものとなります。
これは後に第一次大戦の塹壕戦に繋がります。
日本は多大な犠牲を引き替えに旅順要塞を落とし、ロシア太平洋艦隊を内側から壊滅させます。

Nogi and Stessel
乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見

日本軍は勢いそのままに満州の奉天までロシア軍を追い込みます。
日本は旅順攻略で消耗し講和は必至でしたが、有利な講和とするため賭けに出ます。
奉天会戦は日露戦争最大の会戦でしたが、日本が勝利をおさめます。

連敗のロシアは大西洋から世界最強と謳われたバルチック艦隊を送り込みます。
日本を海上封鎖して、一気に退勢を挽回するつもりでした。
ところが待ち伏せた東郷平八郎率いる旗艦三笠以下連合艦隊が
これをほぼ完全に海中に葬りました。
日本海海戦は世界の海戦史上類を見ない完璧な勝利でした。

MIKASAPAINTING
旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将

日本は陸でも海でも連勝しましたが、国力としては限界でした。
そして戦争に負ける事は亡国を意味する。日清戦争後の清を見れば明らかでした。
日本は戦局が有利なうちに講和をしたい考えでした。
一方、国力のあるロシアはまだ負けていないとして継戦を辞さない構えでした。
しかし、ロシアに革命の兆候が出始め、国内でも講和の機運が高まります。

日本は中立国アメリカに仲介を依頼します。
そしてポーツマス条約にて日露戦争は日本の勝利と言う形で終わります。
日本にとっては白人国家との最初の戦争でした。
そしてアジアの国が白人国家を打ち負かした歴史的事件であり、
これは開国僅か50年足らずでの出来事でした。

奉天会戦で勝利した3月10日を陸軍記念日、日本海海戦の5月27日を海軍記念日とします。
日露戦争は明治維新の成功を象徴する出来事になりました。

横須賀に記念艦として残されている三笠。 イギリス製で当時最大の戦艦。 
第二次大戦後、日露戦争時の敵国だったロシアを継ぐソ連によって解体の危機に直面したが
東郷を師と仰いだアメリカ海軍ニミッツ提督によって守られた。 
今も皇基鎮護の表徴として皇居の方角を向いて佇んでいる。

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