中華民族と大和民族

日本とは切っても切れない関係である隣国中国
中国はユーラシア大陸の東岸に位置する広大な中国大陸にあり、
その肥沃な大地は四大河文明の一つ黄河文明を生み、
古代から現代まで周辺国に影響を与え続けている。
日本においても 明治以降は近代国家建設のために西洋文明の影響下に置かれたが、
それ以前は中華文明がその地位にあり、律令国家の成立に多大な影響を与えた。
漢字が日本で使われているのは、まさに中華文明の恩恵を受けたからである。
しかし、現代において日本と中国の関係は必ずしも良好ではない。

スポンサーリンク

中華思想

「中華」とは宇宙の中心を意味し、
「皇帝」は伝統的に北極星に例えられている。
中国のみが文明国であり、 皇帝の力の及ばない地域は化外の地と呼び、
そこに住む者は野蛮で未開の「夷狄」と呼ばれ、
その方角により南蛮・東夷・北狄・西戎と呼び蔑まれた。

中国にとってみれば日本も東夷の一つでしかなく、
「倭」という蔑称で呼ばれていた。
こういった自民族中心主義の思想を中華思想と呼ぶ。
この思想の背景には万里の長城が証明するように
広大な大陸には常に異民族の侵略というリスクがあった。
島国日本の都が自然を防壁として城壁を作らなかったのとは対照的に
大陸中国ではその強大な文明を築き上げた力と富を守るため、都は城壁に覆われていた。
鎖国下の日本で南の海から船でやってきたポルトガル人を南蛮人と呼んだり、
尊皇攘夷の思想もこの中華思想がベースであり、
近代に入り広まった神国思想や日本雛形論はこの中華思想の日本版と言える。

冊封

周辺国は中国の「皇帝」に朝貢することで「王」の称号を授かり、
地域の統治が認められ、
中国と主従関係を結び、衛星国となることで中華文明の恩恵を受けられた。
これを冊封体制と呼ぶ。
冊封は貿易と安全保障の基本であり、東アジアの伝統的な世界秩序であった。
清王朝の時代に最大版図となり、
インド以東ではムガール帝国と日本を除く国家が冊封を受けていた。

冊封は西洋世界における武による支配とは違い、皇帝の徳による支配を謳い
皇帝の徳を慕い礼を尽くす諸国に対しては
夷狄であっても華の一員であることを認め、
皇帝の徳の高さを表すため貢物に対して数倍の下賜品を送った
中国は当時経済的な先進国であるため、
冊封は武力を行使せずに経済力のみで周辺国を従属させることができ、
周辺国も国防の担保に経済的恩恵と実利が大きく
国益に適うものであったためこぞって臣下に下った。

古代日本も邪馬台国の卑弥呼などが朝貢し
「倭国王」として皇帝から金印を送られている。
琉球や越南(ベトナム)は銀印であり、朝鮮には銅印しかないことから
冊封国の中でもかなり優遇された地位であったが、
日本は最初に冊封と決別した国であり、冊封体制にトドメを刺した国でもあった。

中華民族の定義

大和民族はアイヌなどの例を除きほぼ日本人と同義だが、
中華民族とは現在支配的な漢民族のみを指すのではなく、
満州族やウイグル族など少数民族も含めた総称であると言われる。
実際、元はモンゴル族、清は満州族による征服王朝で、
漢民族は被支配者だった。
清朝時代、漢民族は満州族にとっての南蛮であり、
満州族の髪型である辮髪を強要された。(ラーメンマンの髪型)
現在、伝統的な漢服は消滅し、
中国を象徴するチャイナドレスも満州族の文化である。
中国4千年の実態は分断に次ぐ分断ではあったが、
権力構造の根幹にある中華思想だけが残された。

Qinghairstyle
辮髪にしない漢民族は処刑され
「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」
と言われた。(出典:Kszkkk
Zhou Xuan by C.H.Wong Photo Studio
旗袍と呼ばれる満州族の民族衣装が
西洋のドレスと融合して独自に進化したチャイナドレス。

日本は島国ということもあり、移民の受け入れや海外移住も積極的ではない。
大規模な移住は南蛮貿易が盛んになった戦国時代末期のタイのアユタヤ日本人町が有名。
江戸幕府が成立し戦がなくなり、多くの武士が失業したため、働き口を海外に求めた事、
また、歴戦を戦った日本人傭兵は重宝されたため、
東南アジア各地で日本人街が形成され、
アユタヤ朝では政治的な影響力を持つに至るも、江戸幕府の鎖国により衰退した。

明治維新後は新政府がブラジルやハワイの移民を推奨し、
統治下のアジアや北米にも移民が広がったが、
戦争と敗戦により伝統的な日本人街は消滅。
戦後は南米を中心に移民が行われたが、
その後、日本は高度経済成長となったことから
移民先から日本に出稼ぎに来る日系人が現れる逆転現象となり、
今日では組織的な移住がされていない事もあり、
海外の日系人は現地人と同化傾向にあり、日本人街も衰退の一途をたどっている。

一方、外国にいる漢民族は華僑と呼ばれ、
ユダヤ商人、インド商人と共に世界三大商人に数えられ、
中国大陸で羅針盤が発明されたように、
早い段階から積極的に海外に進出し経済活動を行った。
東南アジアを中心に世界各地にチャイナタウンが建設されており、
特にシンガポールは人口の大半が華僑である。
彼らは明代に移り住んだ移民が大半で、
欧米列強が植民地主義時代、
東南アジアで華僑を使った二重支配を行ったため、地域の経済的実権を握った。
世界大戦では国民党を支持し、日本軍と戦うなど政治的影響力を持った。

日系人は現地に溶け込む傾向だったのに対して
華僑は非常に強いコミュニティを形成する特徴がある。
華僑の移住する地域も中国の一部であるという
中華思想の主張は植民地主義を正当化しており問題にされている。
中国は現在も組織的な移住を行っており、
ウイグル族やチベット族は文化を守るため、中華民族に含まれる事に反対しており、
今も中国共産党による同化政策と戦っている。

横浜中華街

沖縄の龍柱と中国脅威論

辺野古移設に反対した反米親中の翁長市政で
2015年に那覇市の若狭緑地に建造された龍柱
二億円以上の税金が使われ、
中国福建省福州市との友好のために施工が福建省福州市の業者に発注された。

龍は中国皇帝の権力の象徴であり、
歴史的に朝貢国の「4本爪」の龍柱中国に服属する事を示してきたこと、
また海の玄関口に建てられ、14世紀に中国から「久米三十六姓」と呼ばれる
渡来人が移住してきたという久米村が近くにあること、
若狭緑地の龍柱から沖縄県庁まで続く通りには
中国式庭園の福州園久米孔子廟があることなどから、
2010年尖閣事件以来、日中対立が先鋭化していた時期でもあり、
中国共産党を迎えるために建てられと右派から批判された。

批判に関して沖縄県は龍柱は沖縄独自のものと説明しているが、
そもそも琉球王国は中国の朝貢国であったわけで
琉球王国最大の城である首里城に関しても
薩摩藩との接待に使われた南殿のみ和風の意匠であるが、
全体としては中国の城の影響が色濃く、
冊封使を迎えるために建てられた守礼門中国皇帝に対して礼を守る事を表している。
沖縄ではなく琉球と言い換えるなど、
琉球色を出せば出すほど中国感が強まるのは致し方ないとも言える。

メニュー

スポンサーリンク
マンマルXをフォローする
スポンサーリンク
オクタゴン宇宙局OXA

コメント

タイトルとURLをコピーしました