日蓮主義とイスラム~川内康範ヒーロー~

川内康範は1950年代から1970年代にかけて活躍した
脚本家、作詞家、政治評論家、作家。
特に1958年放送の「月光仮面」の原作者として有名。
北海道函館市出身。
日蓮宗の寺院の生まれで、民族派的政治思想の持ち主でもあった。

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月光仮面

「月光仮面」日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画であり、
60年代のウルトラマン、70年代の仮面ライダー・戦隊、80年代のメタルヒーロー
そして現在も続く日本のヒーロー番組の元祖でもある。

Gekkokamen 1
月光仮面とどくろ仮面

月光仮面は「憎むな、殺すな、許しましょう」の理念を持ち、
悪人であっても命を奪うことはしない。
武器の二挺拳銃も威嚇と牽制に使い、
発砲しても敵の武器を打ち落とすために使うなど徹底していた。
ターバン前面の三日月のシンボルは、
月の満ち欠けを人の心になぞらえ、
「今は欠けていても、やがて満ちることを願う」という理想、
「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす」との意味が込められている。

月光仮面の発想は薬師如来の脇に侍する月光菩薩から得られたもので、
「正義の味方」という川内の造語も、
「正義」そのものの神仏への脇役的位置づけを示すものであり、
「決して『正義そのもの』ではない」
という意味を込めることに川内がこだわった。

ターバンにサングラスとマスクという素顔を隠す出で立ちは
「仮面の忍者赤影」「仮面ライダー」を筆頭に
後の国産ヒーローに伝統的に継承されるようになる。
勧善懲悪の「スーパーマン」を始めとする
アメコミヒーローが素顔を晒しているのとは対照的である。
まさに月光仮面は東洋的な正義を前面に出した元祖国産ヒーローだった。

イスラムへの憧れ

川内康範は1958年の「月光仮面」に始まり、
1959年「七色仮面」1960年「アラーの使者」と立て続けにヒーロー番組を作り、
期間を置いて仮面ライダーを始めとする変身ブームの70年代にも
1972年「愛の戦士レインボーマン」
1973年「ダイヤモンド・アイ」
1975年「正義のシンボル コンドールマン」と川内ヒーロー三部作が放送された。

川内ヒーロー番組の共通する特徴は
ヒーローが守るべき存在である人間を
必ずしも善行なものと捉えていないところで
特に70年代の新三部作では
戦時中の日本人の行いによって日本を憎む死ね死ね団(レインボーマン)
人間に化けて悪行を図る前世魔神(ダイヤモンド・アイ)
人間の欲が生み出したモンスター一族(コンドールマン)が悪役として登場。
人間誰しも欲望や悪の心を秘めていて、
それに打ち勝つ強い正義の心を養わねばならない
という川内の強い思想が感じられる。

川内は晩年、右派の政治家である鈴木邦男に
月光仮面の三日月の意味を「イスラム」だと語ったという。
実際に「月光仮面」「七色仮面」に続いて「アラーの使者」を制作し、
また数多くの川内ヒーローはターバンを巻いており、
「ダイヤモンド・アイ」はアラビア生まれという設定であった。
川内ヒーローには仏教とイスラムという二大宗教を融合させたところがある。
日蓮主義者の大川周明が晩年イスラムに傾倒したように
日蓮主義とイスラムには何かしら深い縁があるように思われる。

イスラム教と日本人

世界で二番目の信者数を誇ると言われるイスラム教
アラビア半島で生まれ、中近東、北アフリカ、インドへ広がり、
マレーシアから東南アジア、中国、フィリピンなど東方にも進出したが、
日本には19世紀後半になるまで伝わらなかった。
既に16世紀にポルトガルの宣教師によってキリスト教が持ち込まれ、
イスラム聖者が日本で布教する隙がなかったとも言える。
その後江戸幕府が鎖国を開始し、キリスト教さえも禁教にしたためこの期間はさらに伸びた。

そもそも大航海時代、貿易と共に積極的な海外布教を推し進めた
カトリック・キリスト教と違い、イスラム教の布教はゆっくりと時間をかける。
また教化後も土着の文化や習慣に非常に寛容という特徴があり、
それがこれだけの信者数を抱える世界宗教へと発展した背景にある。

日本に最初に入ってきたムスリム集団は、
1917年のロシア革命によって国を追われた中央アジアのタタール人たちであり、
第二次世界大戦では日本がイスラム圏を占領下に置いたため、
現地でイスラム教に改宗した日本人もいた。

国内の信者数も少なく、近年では過激派のテロばかり取り上げられるため、
日本人にとってイスラム教はもっとも遠い宗教と思われがちだが、
大川周明川内康範など少なくない日蓮主義者がイスラムにシンパシーを感じている。
日蓮宗もイスラム教も自らの教義を最終絶対的なものとするという特徴がある。
日本におけるイスラム研究は戦前の昭和10年代と戦後の昭和50年代にピークがある。
前者は世界恐慌で露呈した西洋的資本主義の限界
後者はオイルショックが引き金となった戦後の極端なアメリカ化への反発を背景に展開された。
日蓮主義者のイスラムへの入れ込みは
キリスト教を根源とする物質主義に対する反発であったのではないだろうか?

快傑ハリマオ

Yutaka Tani
ハリマオこと谷豊

日本人ムスリムとして特に有名なのが
昭和初期にマレーで活躍した盗賊「ハリマオ」こと谷豊である。
谷一家はマレーに移り住み、現地に溶け込みイスラム教に改宗した。
谷豊は徴兵検査で日本に帰国中、義妹を華僑の暴漢に殺された恨みから
主に華僑を狙う盗賊団を組織し、
3000人のマレー人を率いてマレー半島のジャングルを駆け回った。
大東亜戦争開戦にあたり、現地に詳しい人物を探していた日本陸軍参謀本部は
日本人であり、マレー語とタイ語に堪能な谷豊に目を付け、
第一次世界大戦でアラブ人を扇動したイギリス人アラビアのロレンスのごとく
マレーのハリマオはマレー人と共にF機関と協力して諜報員として活躍した。
谷豊は作戦中にマラリアに感染し惜しくも30歳の若さで亡くなるが、
没後、その英雄譚は戦意高揚に利用された。
戦後も1960年に月光仮面を制作した宣弘社によって
特撮番組「快傑ハリマオ」が製作されている。

最後までムスリムとして生き、
闘病中も「本当のマレー人なら白人の作った薬は飲まない」と言って
サイの角を粉末にして飲んだ。
遺体は部下に引き取られ、イスラム式の葬礼を行ったとされる。
一人の日本人が多くのマレー人から絶大な信頼を勝ち得ていたのは驚きである。

イスラム国家は東南アジアだけでなくアラブでも親日国が多い。
同じアジア人でありながらロシアを負かし、
アメリカに2発の原爆を落とされながらも戦後復興を遂げた姿に感銘を受けると共に
歴史的な接触は少ないにも関わらず、
「弱いものを助ける」「横の繫がりを大事にする」という
日本の武士道精神とイスラームの道徳は共通する概念が多く、
自然災害でも揺るがない強固な日本社会は
ムスリムの思い描く理想に限りなく近いと考えるものが少なくない。

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