南北朝正閏論とは日本の南北朝時代において
南北のどちらを正統とするかの論争。
閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味。
室町時代~江戸時代など中世から近世にかけては北朝が正統とされたが
明治以降は南朝が正統であると認識されている。
しかし血統で言えば現在の皇室は北朝由来であるため、
戦後になり南朝の末裔として正統後継者を名乗る自称天皇が複数人現れた。
歴史
南北朝時代と百王説
元寇の後、96代後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し天皇親政を目指したが
武家である足利尊氏の離反に遭った
戦いを優位に進めた足利氏は和睦のため後醍醐天皇から三種の神器を獲得し
持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、
建武式目を制定して幕府(室町幕府)を開設する。
しかし後醍醐天皇は三種の神器は偽物であるとして
京都を離れ吉野の地で朝廷を開いたため。
二つの王朝が存在し、度々対立する南北朝時代となった。
時代は元寇のショックが残り
釈迦入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという末法思想に始まる終末論が広がっていた。
そして同時にいかなる王朝も100代までで滅びるという百王説も語られた。
南北朝時代はまさにそれを象徴するかのような出来事であった。
南北朝合一から明治維新
しかし、南北朝は和睦し100代後小松天皇が北朝から即位する。
以降、南北朝交互に天皇を立てる取り決めがなされ南北朝合一となった。
だが、問題は解決しなかった。
北朝は取り決めを無視して、その後も政略によって北朝系天皇が即位した。
99代後亀山天皇の子孫である小倉宮は北朝に対して抵抗運動を続けるが
徐々にその勢力を弱めていった。
その後、権威を保持した北朝は正統であるとみなされてきたが、
江戸時代、徳川光圀が水戸学の中で
三種の神器を保持した南朝が正統であるとし、
神器なしで即位した北朝は正統性がないと主張した。
この事が倒幕派に影響を与えた。
そのため、明治維新によって再び南北朝正閏論が沸き起こり
国会が紛糾する政治論争となった。
南朝正統派の勢いを抑えられないとみた
明治天皇はついに南朝が正統であると認めるに至った。
そして足利氏は天皇を裏切った反逆者であると評価されるようになった。
明治天皇が北朝の血縁でありながら南朝を認めたり、
皇居外苑に最後まで南朝を支えた武将、楠木正成の像を置くという状況から
明治維新は南朝派によるクーデタであり、
明治天皇は南朝の生き残りであり替え玉であるという説がある。
(南朝革命説と田布施システム)
戦後
南朝が正統であるはずなのに北朝由来である現皇室が存在することから
戦後になり不敬罪が消滅すると熊沢寛道を始め
南朝系の男系男子として自分こそが正統な皇位継承者であるとする
「自称天皇」が現れ
GHQや海外メディアが取材するなどメディアを賑わした。
政治活動も行ったが、信ぴょう性に問題が有り、
GHQも昭和天皇を利用する方針を固めたため
状況を大きく変える力とはならなかった。
天皇が北朝であっても万世一系の男系男子である事は両立するが、
正統でないとされた北朝由来である事はあまり発言されていない。
これも一種の菊タブーである。
いずれにしても明治維新が
大きなターニングポイントであったことに疑いの余地はない。
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