明治天皇替え玉説

明治天皇替え玉説とは明治維新の中で
本物の明治天皇(睦仁親王)は暗殺され別の人物にすり替わったという説。

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概要

幕末、幕府と倒幕派は政局を有利にするため互いに朝廷に働きがけていたが
倒幕派が優勢になりつつあった。
幕府は大政奉還を発表し、政権を朝廷に戻した。
幕府はこれによって倒幕派の大義名分を消滅させ、
幕府に変わる政府組織がないため、その後も統治を続ける狙いだった。

倒幕派はこれに対し王政復古の大号令を発令し、新政府の樹立を宣言した。
この後に新政府軍と幕府軍の間で
鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争へと拡大していく。

戊辰戦争は新政府が勝利し、江戸幕府は消滅した。
明治新政府は本末制度など仏教による統制を行った江戸幕府に対抗する思惑もあり、
国民統合のため西洋国家におけるキリスト教を手本
日本固有の神道国教にしようとした。
既に日本では神仏習合が根付いていたが、
復古神道という動きの中で仏教を神社から切り離す神仏分離を行い
仏像や寺院を破壊する廃仏毀釈が全国に広まった。
この運動の中心となったのが皇室であった。

しかし、皇室には1400年に渡る仏教の歴史があり、
用明天皇の時代から江戸時代まで仏教を保護し篤く信仰してきた。
それがわずか数年で廃仏を受け入れるのは理解し難い。

皇室の葬儀も明治天皇の父、孝明天皇までは泉涌寺仏式で行われたが、
荼毘が廃止されたため、墓地(御陵)はそれまでの仏塔に変わり、
日本古来の円墳を模した山陵となり、
明治天皇以降は葬儀も御陵も神道式になっている。

先代孝明天皇は攘夷派の代表と言われるが、
佐幕派とも取れる公武合体を主張していた。
孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時にわずか35歳で急死した。
これらの事から孝明天皇と
その子である睦仁親王(明治天皇)は倒幕派により暗殺され、
我々が今日知る明治天皇は替え玉であるという説がある。

維新の志士の一人で宮内大臣まで務めた田中光顕が晩年、
明治天皇の秘密について語った。
基本的にはこの証言のみで、暗殺やすり替えについて
他の皇族や藩からの反発の声がないことから疑問視されている。

南朝革命説と田布施システム

Meiji Emperor (edited)
内田九一撮影 明治天皇(1873年)神奈川県立歴史博物館蔵

明治天皇は誰が替え玉となったのか?
この替え玉説を補完するものに南北朝正閏論がある。

南北朝時代に朝廷が分裂して
その後、江戸時代まで北朝系の皇統が続いたが、南朝は度々抵抗運動を続けた。
しかし、徐々に勢力を失った。
実はこの南朝の末裔は各藩で匿われていた。

長州藩、毛利家は長年渡って南朝の末裔を匿っていた。
長州はこの南朝の末裔である
大室寅之祐を天皇とし王政復古を成し遂げる計画を持ち、
薩長同盟の成立は南朝の大忠臣菊池氏の子孫である西郷隆盛が
その計画に賛同したからだと言われている。

明治天皇が南朝の末裔だったとしても皇統は守られている事になるが
万世一系は近代に作られた神話ということになる。
また明治天皇が替え玉でなかったとしても
事実、明治維新以降、明治天皇によって南朝の名誉回復がなされた。
皇居外苑には最後まで南朝を支えた武将、楠木正成の像が置かれている。

Kusunoki Masashige statue
(出典:David Moore

そして大室寅之祐や伊藤博文、木戸幸一などの明治新政府の要人は
長州藩の田布施(現山口県田布施町)という小さな町の出身であった。

Tabuse in Yamaguchi Prefecture Ja
図の黄色が田布施町の位置(出典:Lincun)

明治以降作られた大日本帝国
第二次大戦の敗北を持って消滅したかのように思えたが
戦後も皇室は存続し、明治国家は継承された。
岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は長州藩、田布施一族の末裔であり、
吉田茂、鈴木善幸、宮沢喜一、麻生太郎なども田布施一族の親戚関係にある。

田布施という一地方に権力者が集中する事を俗に
「田布施システム」と言う。
奈良平安時代における藤原氏のように
明治以降、田布施一族は皇室と密接な関係を築いてきた。

一方、戊辰戦争で幕府側についた会津藩(現福島県会津若松市)
明治維新後も長州閥が会津出身者の登用を妨害し続けたため
長州藩に対する恨みが根強く、今でも山口県と友好関係が築けていない。
福島は原発事故による影響が長引いているが、
そもそも日本の原発は
戊辰戦争で幕府側についた藩に建てられたという俗説まで生まれている。

意図的ではないとしても、戊辰戦争後、
長年にわたる懲罰的処分のため
開発が遅れた東北は原発開発を受け入れるしかなかったとも言える。

明治維新ユダヤ陰謀説

南朝による革命説とは別に田布施は朝鮮人部落の地名であり、
明治維新によって日本は朝鮮人に乗っ取られたと言う説もある。

毛利家に支配される前、長州藩は大内氏が支配していたが
大内氏は百済の流れを汲む古代朝鮮系渡来人の末裔だった。
毛利に攻め入られ、大内氏は散り散りになり、
一部が長州藩田布施に閉じ込められた。
不思議なことに長州と手を組み
明治維新を行った薩摩(鹿児島)にも田布施という地名がある。

毛利家支配下で最下層に置かれた大内氏(田布施一族)が
天下統一を果たす
というシナリオは
ロマノフ王朝支配下で最下層に置かれたユダヤ人が起こした
ロシア革命とよく似ている。

ここで出てくるのが「ユダヤ」の影である。
薩長同盟の仲介をした坂本龍馬は海援隊を作って
ロスチャイルド系のグラバー商会と手を組み武器を仕入れていた。
龍馬は薩摩に武器を売ったが、
薩長同盟により長州藩に横流しすることが出来た。

Sakamoto Ryōma
井上俊三撮影 坂本龍馬(上野彦馬写真館) 

武器が売れて喜ぶのはロスチャイルドである。
日本において戦乱が起こることは彼らにとって利益であり
つまり新政府の樹立を後押しする事になった。
長州五傑に留学費用を工面し、留学を手配したのもグラバーであった。

ユダヤ陰謀論の一部からは
明治維新はユダヤ資本が朝鮮人脈を使って日本を支配したと結論づけている。
騎馬民族征服王朝説の再来のようだが、
いずれも現代の朝鮮民族とは一切関係がないことに注意。

どの説も陰謀論の類を出ないが、開国を迫ったマシュー・ペリーや
GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーが
フリーメイソンである点を踏まえても
ユダヤが広い範囲で近代日本に何らかの影響を与えたことは確実である。

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