1932年に誕生し1945年に消滅した極東の満州国と
1948年に誕生した中東のイスラエルは同時期に存在しておらず、
何の繫がりも無いと思われそうだが、実は不思議な関係性を秘めていた。


戦略的人工国家
満州国は満州民族の国として、イスラエルはユダヤ人の国として誕生した。
両国とも、歴史的・宗教的・民族的な記憶を背景としつつ、
当時の大国の支援・介入によって誕生した「戦略的国家」であり、
自発的な民族運動と同時に、
地政学的なパワーバランス調整の道具として機能していたという共通点がある。
満州国
満州国は、かつて清朝を築いた満洲族の「故地」において、
日本が関東軍を通じて建国を主導した。
満州地域(現在の中国東北部)は万里の長城の外側にあり、
金や後金など歴史的な満州族の土地だった。
関東軍は辛亥革命以降、衰退する清朝再興を求める愛新覚羅溥儀を担ぎ、
名目上は「五族協和」「王道楽土」の理想国家であったが、(満州国の理想)
実際は日本が大陸利権を単独で掌握する形で展開され、
関東軍は行政・外交・治安を支配し、
日本の国策企業が鉄道・鉱山・工業資源を独占的に開発する体制が築かれていた。
満蒙は日本の生命線として豊富な資源が期待されたが、
直接支配の形を取らず、
独立国家を作る事で欧米からの批判を避ける狙いがあった。
これは特に中国の門戸開放・機会均等を訴えたアメリカを刺激し、
最終的には日本の連盟脱退、日米戦争へと進むきっかけにもなったが、
当面の間は安定的な国家成長を実現した。
日本の当時の安全保障において
一番の脅威はソ連・コミンテルンの極東拡大であり、
朝鮮半島と陸続きであり、ソ連と接する満蒙地域は
その防波堤と言える存在であり、対ソ連の緩衝地域として、
ここを内乱続きの不安定な中国から分離独立させる事が重要であった。
イスラエル
一方のイスラエルもまた、ユダヤ人による「約束の地」への帰還という
シオニズム運動という宗教的・歴史的理念に基づいて建国された。
できたばかりの国連のパレスチナ分割決議案に基づいたものだったが、
実際には戦後中東における米英(とくに英米石油資本)の戦略的拠点として、
アラブ産油国への影響力確保という文脈でも捉えることができる。
特に英領パレスチナからのイギリス軍撤退と、
戦勝国による国連のパレスチナ分割決議案に基づくユダヤ国家樹立は、
スエズ運河・ペルシャ湾を軸とした利権構造の再編に直結していた。
ナチスによるユダヤ人ホロコーストという民族の悲劇は
国際世論にユダヤ国家建設の正当性を与え、最大限利用された。
しかし、イスラエル建国により土地を追われた
パレスチナ難民の存在は中東アラブ諸国を刺激し、
第四次に渡る中東戦争を始めとする紛争が多発した。
戦後、多くの中東植民地が独立を果たす中で
ユダヤロビーを抱えるアメリカや旧宗主国である英仏にとって
産油国を直接支配するという従来の帝国主義的な方法を取らず
石油資源をどうコントロールするかが重要だった。
イスラエル自身は産油国ではないが、
スエズ運河に近く、アジア・欧州の結節点というパレスチナ地域は
中東の産油国にくさびを打ち込むには絶好の場所であった。
まとめ
満州国とイスラエルのいずれも、
「民族的回帰」や「自決」の理念が前面に出されながら、
実態としては大国の地政学的・経済的利益の傀儡国家としての性格を帯びていた。
満州では日本が、パレスチナでは英米が、それぞれ他国の反発を抑えつつ、
自らの影響力を間接的に保持する手段として、国家建設プロジェクトを遂行したと言える。
満州国は五族協和を訴え、
満州族だけでなく多くの移民を受け入れる多民族国家を形成したが、
ソ連侵攻と敗戦により日本の保護が無くなると瓦解し、13年5カ月の歴史を閉じた一方で
イスラエルはユダヤ人入植を推し進め、パレスチナ人を閉じ込める排外主義を取り、
自主的に軍備を拡張、さらには周辺国に対して領土拡張を進めるなど
支援を越える自主性を発揮したという点で違いはあるが、
とはいえ、満州国の事例は、近代における大国主導の民族国家形成モデルとして、
イスラエルをはじめとする戦後世界の地政学的秩序形成に対して、
少なからぬ先例的影響を与えていた可能性がある。
河豚計画
満州事変によって日本の傀儡国家として誕生した満州国だったが、
移民国家の顔を持っていたため、
1934年から1938年頃にかけて陸軍や外務省の一部は
亡国の民であるユダヤ人を満州に誘致する
俗にいう河豚計画という構想を持っていた。
ふぐ(河豚)は毒もあるが、扱い方によっては美味という事から
ユダヤ人も慎重に扱えば日本に有益に働くという意味でこう呼ばれた。
日産コンツェルン創始者の鮎川義介が提唱し、
1938年の五相会議では日本政府の方針として定まった。
実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。
当時、満州国は誕生したばかりで、
また連盟により国家承認されず国際的な立場が弱いままであった。
ユダヤ資本が満州に入ってくることは国力増強に繫がり、
国内にユダヤ難民を受け入れる事により、
国際的な国家承認もされやすくなると日本政府は考えた。
また満州政策を巡ってはアメリカとの関係が悪化していたため、
アメリカ政財界に影響力を持つユダヤ人社会が
この政策を肯定的に受け入れれば
アメリカの対日強硬姿勢に変化を与えることが出来るのではないかとも考えられた。
実際にハルビンには歴史的に大きなユダヤ人社会が存在しており、
これをモデルケースとして陸軍情報部と関東軍を中心に真面目に検討され、
ユダヤ社会と接触を続け、実現の可能性は十分だった。
しかし、1936年に日独防共協定が結ばれると、
日本は枢軸国との関係を重視し始め、
同時にナチスからユダヤ人排斥政策への協調を求められるようになり計画は後退、
日本は「ユダヤ排斥に加わらない」という姿勢を貫いたが、
結局ユダヤ人満州移住計画は幻の計画となってしまう。
日本はユダヤ資本による利益を求めた一方で
ユダヤがもたらす「毒」についても警戒しており、
実際にユダヤ人移住が行われたとしても
上海ゲットーと同じように新京やハルビンなど決められた都市に閉じ込めて
ある程度の行動制限を設けた可能性もある。
つまり完全に人道的な理想主義によるものではなく、打算的な側面が強かった。
また、肝心のユダヤ人も目指すべき場所はシオンの丘(パレスチナ)であり、
縁も所縁もない極東に移住する正当な理由も無く、この構想に消極的だった。
ただ、イスラエル建国の前史において、
日本が率先してユダヤ人に安住の地を与えようとしていたのは非常に興味深い。
当時はユダヤ人の移民に対してはどの国も消極的であったが、
日本は積極的に移住計画を推し進めていた。
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