歴史学とは過ぎ去った出来事、もう見ることはできない歴史というものを
様々な史料によって再構築して視覚化する技法を鍛える学問です。
「温故知新」という四字熟語がありますが、
歴史を学ぶことは現在、そして未来の政治・経済・社会・文化に役立つ訳です。
教育の現場では歴史は基本的に事実として受け止められるわけですが、
必ずしも事実とは限らないのが難しいところです。
「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉通り、歴史は常に勝者が作るのです。
過去には焚書が頻繁にされましたし、
戦前と戦後でGHQによって日本の歴史観は大きく変えられました。
焼け野原で青空教室の子供たちが教科書を黒墨で塗りつぶしたように
常に時の権力者によって歴史は塗り替えられてきたのです。
正しい歴史認識という言葉をよく聞きますが、
それはある立場から見た一方的な主張でしかありません。
歴史は常に政治的な影響を受けている。
歴史学を研究する上でこの点を留意する必要があります。
歴史学から神秘学へ
一方、ロジカル思考で考える歴史学の対極に存在するのが神秘学です。
オカルティズムとも呼びますが、
このオカルト(occult)の語源はラテン語の「隠されたもの」であると言われています。
占星術、錬金術、呪術、魔術などを実践する学問ですが、
オカルトは科学的に解明できない超常現象を扱い、
一般的にアカデミックの対象にはならず、事実と見られることは稀です。
しかし、地動説をはじめ、数々の陰謀論が後に歴史的事実となった例はいくつもあります。
今では星占いなどちょっとした趣味のような扱いですが、
科学が発達していなかった古代から中世においてはオカルトと科学の境界は曖昧で、
神秘学が大々的に政治に利用されてきました。
オカルティズムの最たるものと言えば宗教でしょう。
生贄の文化や中世ヨーロッパの魔女狩り、
イスラム圏の宗教裁判など今の目で見れば滅茶苦茶な人権侵害だと思われがちです。
聖書の内容を事実だと認識している人はどれだけいるでしょうか?
しかし、人類は有史以来救いを求めて人知を超えた存在(神)に祈り続け、
それによって現在進行形で宗教戦争まで起こっています。
ナチスドイツの宣伝相だったゲッベルスは
「嘘も百回言えば真実となる」と述べています。
この言葉は主にナチスドイツの行ったプロパガンダと結びつけられていますが、
古今東西の宗教にも言える核心を突いた名言と言えます。
嘘か真実かは大きな問題ではないとも言い換えることができます。
事実そのものではなく、事実として扱われたその歴史は尊重する必要があります。
当時の人々がどのように物事を捕らえていたのか?
それを知る手がかりが各地域の宗教や哲学などの信仰に残されているのです。
オカルト大戦
このREPORTの特集ページでは
歴史学からさらに踏み込んで超古代文明、古史古伝、陰謀論など
神秘学要素を多分に含んでいます。
特に「ユダヤ陰謀論」と「日猶同祖論」「日本雛形論」の三大思想がベースになっていますが、
ユダヤ陰謀論はナチスドイツ第三帝国、日ユ同祖論、日本雛形論は大日本帝国。
第二次大戦中の枢軸国(敗戦国)側で流行した思想です。
また(政治運動としての)ファシズム、皇国史観も扱っており、
トンデモオカルト民族主義者と思われそうなのですが、
ナチス・ナチズムのユダヤ人に対するジェノサイドなどの
民族浄化を容認するつもりは一切ありません。
実在の人物・団体、特定の宗教・民族を誹謗中傷し、
否定する事はオクタゴン憲章に反する行為です。
しかし、 我が広島と長崎に核兵器を使用し、ナチス同じく民族浄化を企てた国も知っています。
これら戦勝国である連合国側の一方的視点から
敗戦国である日本とドイツのみ全面否定するのも反対の声を上げていきたいのです!
敗戦国がどういう正義を掲げて戦っていたかその全貌を知ることは
日本を含めた当事国であっても黒歴史化されていて困難です。
だからこそオカルティズムを研究する必要があります。
大戦中、ヒトラーは真剣にロンギヌスの槍を探したり、
伝説の地底王国アガルタを探しにチベットに軍を派遣しました。
日本に至っては天皇陛下を頂く世界で唯一神話と歴史が繋がる国であり、
神州不滅を最後まで信じて決死の特別攻撃(神風)まで行っています。
そう言う意味では究極に近いオカルト国家です。
ところが、一方の連合国もオカルトにどっぷり浸かっておりましたw
英軍は黒魔術師アレイスター・クロウリーと協力。
首相のチャーチルは呪術的なVサインを多用しました。
第二次大戦は互いに互いを呪い合うオカルト大戦だったとも言われています。
戦争という極限状態の中ではいつの時代も神秘学に救いを求めるのが人の性なのでしょう。
この時代は我々の祖父母の生きていた時代であり、つい最近の出来事と言えます。
このように神秘学は古代や中世などの過去の遺産ではなく、
ひっそりとではありますが、近現代においても脈々と受け継がれているのです。
「マンマルXとオカルト」
何故私が隠されたもの、見えないものに対して興味を持ち心を寄せるようになったのか?
そもそも私は代々信仰の篤い仏教徒の家で生まれました。
子供の頃から毎月のようにお寺に連れて行かれては意味も分からずお題目を唱え、
何も感謝することをされていないのに挨拶は「ありがとうございます」と言わされました。
記憶に残っている中で幼稚園の頃には既に
人には死という逃れられない見えない不安や恐怖が運命づけられているのになぜ生きているのか?
ということをふと考え始め
それでも現在進行形で生きている、生きていかねばならない人生に違和感を覚えました。
子供の頃は毎日の楽しさに人生の無常観、絶望感は隠れていましたが…子供の頃は(;^ω^)
そして、義務教育の間に小林よしのり著「戦争論」を読んだことにより、
戦後教育、自虐史観により隠された民族の歴史を知り、
戦後民主主義への疑念とオカルトへの興味は決定的となりました。
隠れた部分を知ったときの衝撃は計り知れません。
見えている部分は当たり前、見えない隠れされている部分にこそ本質があると思います。
見えない部分を追求するアプローチは人それぞれですが、
私の場合は歴史学と神秘学が両輪となっているのです。