三英傑の時代
織田信長
![Odanobunaga](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Odanobunaga.jpg/512px-Odanobunaga.jpg)
戦国時代になると織田信長によって
天台宗における比叡山焼き討ちや浄土真宗における一向一揆など
多くの既存宗派が宗教弾圧を受けた。
八坂神社(祇園社)の神紋は信長と同じ木瓜紋だが、
これは織田家が信仰する牛頭天王を祭る事によって
神社破壊の難を逃れようとした名残である。
一方で新たに海外から来たキリスト教を保護し、
九州から近畿にかけて広く伝わった。
この背景にあるのは日本統一である。
今の寺のイメージで見ると
武士が一方的な武力によって無慈悲に寺院を破壊したように思えてしまうが、
当時の大寺院には「僧兵」がおり、独自の強力な軍事力を持っていた。
あの武蔵坊弁慶も僧兵である。
寺はこうした武力を背景に政治的に幅をきかせ、
戦国大名による天下統一の障害となっていた。
特に強大だったのが浄土真宗(一向宗)である。
信長は日本においてキリスト教を認めることで
火縄銃を始めとする兵器など南蛮貿易による利益を得るだけでなく、
国内の仏教勢力を弱体化させた。
しかし、織田信長自身はキリスト教を信仰せず、
本能寺など最後まで日蓮宗(法華宗)の寺院に宿泊していたように
熱心な法華宗信者であった。
また仏教と同じく、インド、中国、朝鮮を通して日本に入った
世界最古のオーケストラと呼ばれる雅楽は
室町時代から続く長い戦乱によって衰退していたが、
織田信長の手厚い保護のもと復活し今日に至る。
雅楽の場で信長の家紋である木瓜紋が見られるのがその名残であり、
新しい物好きのイメージの信長は伝統文化を保護する意思も持っていた。
豊臣秀吉
![Toyotomi hideyoshi](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Toyotomi_hideyoshi.jpg/512px-Toyotomi_hideyoshi.jpg)
信長の跡を継いだ豊臣秀吉は天下統一を果たし、
刀狩りにより寺から武力を取り上げて、
信長とは逆にバテレン追放令を出すなどキリスト教を排除した。
信長同様に南蛮貿易は推奨していたが、
主なる神を絶対とするキリスト教は天皇のみならず、
幕藩体制への否定へと繋がるものであった。
事実ヨーロッパ列強は
布教と貿易によってアジアに植民地を広げており、
イエスズ会をアジア各国に送り込ませ、植民地化を進めていた。
フィリピンを領有したスペインは次に中国大陸を狙っていた。
日本を統一した秀吉はこれに対抗し、
明を勢力下に置く目的で朝鮮に出兵しており、
この時、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)と
マニラのフィリピン総督(スペイン)にも
日本の配下に下るよう降伏勧告状を突き付けている。
徳川家康
徳川家康は現在までの影響力を考えると
仏教よりも国内に儒学を広めたという面が強い。
歴代幕府のように下剋上などの謀反を起こさせないために
江戸時代を通して上下の身分秩序を重んじる儒教を精神的な柱に据えた。
しかし日本における儒教は道徳や学問として広まり
基本的に宗教とは認識されず、家康自身も熱心な浄土宗信者だった。
浄土真宗の勢力は以前大きかったため、お家騒動に付け入って
本山である本願寺を西本願寺と東本願寺に分断させるなどしたが、概ね仏教を保護した。
またキリスト教を拠り所とする天草四郎による島原の乱を受け、
キリスト教を公式に禁じて「鎖国」を開始した。
寺には本末制度を導入し、
日本国内の寺院を本寺、それに属する末寺に分けて住民の戸籍を管理した。
これによって小寺院の紛争を抑えつつ
隠れキリシタンをあぶり出すことができた。
織田信長により日本はキリスト教の国になりかけたが、
秀吉、家康の政策により、日本はれっきとした仏教国となった。
分離された西本願寺と東本願寺(出典:663highland)
幕末~近代
確かに本末制度によって寺院同士の争いは減ったが、
布教や啓蒙をせずとも信徒を獲得できるようになったため
江戸末期になると形骸化が進み、
現在同様に葬儀と墓の管理を請け負うだけの存在になり果てていた。
開国後は外国人犯罪も増えたため尊皇攘夷の声が高まり、
水戸学や国学の広まりと共に、
日本古来の神道の復興運動が展開され、
外来の仏教に対する嫌悪感が作られてきた。
尊皇攘夷派や国学派によって倒幕運動が続けられ、
江戸幕府は上記の本末制度など
仏教を背景とした国内統治を行ってきたため
明治維新後、新政府は皇室による支配を確立するため、
神道と融合が進んでいた仏教を分離し、
廃仏毀釈が行われるなど仏教に再び激しい弾圧を与えた。
だが、仏教は飛鳥時代から長きにわたって
皇室から農民に至るまで多くの日本人に受け入れられていたため
これは徹底されなかった。
このため神道国教化は断念させられ、逆に神道を非宗教化させることで、
仏教を信仰しながらもお伊勢参りや皇室への崇拝を高めることにした。
近代日本が国家神道を推進したので、
対外戦争を経ていく中で、支配地域の皇民化も進められたが、
仏教も国家主義と融合した日蓮主義という運動が起こり、
満州政策などで影響力を持った。
「八紘一宇」というスローガンは日蓮主義由来のもので、
大東亜共栄圏建設のために海外向けには
日本固有の神道によるアジア支配よりもアジア共通の仏教における統一を説いた。
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