翔鶴型航空母艦
二番艦の瑞鶴 |
翔鶴型航空母艦は1941年(昭和16年)に竣工した日本海軍の航空母艦です。
一番艦「翔鶴」、二番艦「瑞鶴」があります。
日本は世界で最初に正規空母を完成させた国(鳳翔)で
戦前数多くの空母を建造しましたが、
(計画・建造はイギリス海軍のハーミズが最初)
翔鶴型はロンドン海軍軍縮条約から脱退後初の軍備計画である
マル3計画にて大和型戦艦1番艦大和、2番艦武蔵と共に建造され、
大和とほぼ同時期に完成しました。
それまでの空母建造のノウハウを詰め込み満を持して開発された
条約による排水量の制限を受けない
必要かつ十分な装備を持つ日本初の本格的な大型攻撃型空母と言えます。
翔鶴型は球状艦首(バルバス・バウ)を採用した最初の日本軍艦で、
最大速力約34ノット出すことができました
機関出力は16万馬力で、大和型戦艦をも上回ります。
機関部や弾薬庫などの艦主要部は
巡洋艦の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、
炸薬量450kg の魚雷にも耐えうる水雷防御が施されていました。
これらの性能もあり、
一番艦の翔鶴は幾度も重大な損傷を受けながらも
大戦初期から後期までを戦い抜き、
二番艦の瑞鶴と並んで日本海軍を通じてトップクラスの武勲を挙げました。
日本の空母というと対戦国アメリカと比較して
艦載機の少なさやダメージコントロールの点で見劣りしてしまいがちですが、
そもそも第二次世界大戦当時に空母を保有していたのは
日本とアメリカ、イギリスの三国で、
これはそのまま世界三大海軍に当たります。
また空母を中核とした機動部隊を運用できたのは日本とアメリカのみです。
周りを海に囲まれたシーパワーの国であるという地政学的な要因が強いですが、
敗戦時には制空権、制海権ともに損失し、
連合艦隊が壊滅状態だったことを考えると
日本の運命はまさに空母にかかっていたと言わざるを得ません。
そういう意味で真珠湾攻撃からマリアナ沖海戦まで
戦い抜いた翔鶴型は日本空母の興廃を象徴する艦と言えます。
真珠湾へ向かう翔鶴の艦載機 |
日本は世界で最初の空母機動艦隊を作り上げて
前代未聞の長距離攻撃であるハワイ真珠湾攻撃を行いますが、
米空母を一隻も沈められなかったのは痛恨のミスでした。
そのためハワイ作戦第二弾としてミッドウェー海戦を行うことになりますが、
ここで日本は主力空母4隻を一気に失ってしまいます。
続く南太平洋海戦では
空母ホーネット沈没、エンタープライズ中破の戦果を挙げ、
アメリカの稼働空母数を一時的に0にする事に成功しますが、
日本側の被害も甚大でした。
アメリカは持ち前の生産力で次々と空母を建造し前線に投入してきました。
日本は大和型戦艦の三番艦として計画され、
ミッドウェー海戦以降の戦局の変化に伴い
急遽空母として設計変更し、世界最大の航空母艦信濃を完成させますが、
時すでに遅しで竣工からわずか10日で米潜水艦に沈められてしまいます。
日本は勝者ではなかったかもしれませんが、
世界に先んじて空母を保有し、
真珠湾攻撃で初めて空母を効果的に運用した空母の先駆者でした。
背景には軍縮条約がありました
日本はロンドンやワシントンにおける軍縮会議で
戦艦をはじめとする軍艦の保有数をめぐり軍備平等を目指しましたが、
アメリカの反発もあり、
妥協案だった対米英7割も実現できず数的不利な状況でした。
一方でアメリカはイギリスと肩を並べる力を持つことになりました。
日英同盟も解消されたワシントン体制下で
日本は外交的にも不利な状況に立たされていました。
こうして日本がとった戦略が
当時はまだ補助艦扱いだった空母と艦上機による空母機動艦隊だったのです。
この辺の歴史的流れは
ドイツ陸軍の航空機と戦車による電撃戦と似ているかもしれません。
真珠湾攻撃の戦史的な重要性もさることながら
日本海軍の作戦範囲は太平洋全域のみならず
アメリカ西海岸からインド洋を挟んでアフリカ沿岸まで広がりました。
極めて短期間にこれほどまで広範囲に活動した軍隊は歴史上他に類を見ません。
これはゼロ戦などの航続距離の長い航空戦力のみで成立するわけもなく
母体となる空母の存在なくしてあり得なかったのです。
こうした歴史と伝統を持つ日本が再び空母を持つ時代が訪れようとしています。
その時こそ海洋国家として
日本が本当に自立した主権国家になったと言えそうです。
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