元寇と倭寇

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相次ぐ異民族の侵入

唐が崩壊すると中国大陸は再び分裂し、冊封体制も揺らぎ始めた。
唐に従属していた新羅も新たに興った高麗となった。
その後、中国を統一しただったが
などの北方民族と対等、もしくは臣下に下ることを余儀なくされ、
冊封体制の中心とはなり得なかった

そしてモンゴル帝国の侵入により、
宋が滅ぼされ征服王朝であるが興る。
高麗は宋代や元代も続いたが、モンゴル軍の侵攻を受け、やはり元に服属していた。
元は日本も臣下に下るように迫るが、鎌倉幕府はこれを拒否したため、
元は高麗と共に日本を侵略を企てて
朝鮮半島を足がかりに北九州に上陸し、元寇を起こす。
日本はこれを撃退し、独立を維持する。

Mōko Shūrai Ekotoba
文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」

冊封体制の立て直しと秀吉の唐入り

モンゴル族は北方に追いやられ、新たに漢民族によるが興る。
明は冊封体制の再構築に努め、
朝鮮半島では高麗に代わって李氏朝鮮が興り、
明の冊封を受け、「朝鮮王」となった。
日本も南朝の懐良親王倭寇征伐の見返りとして日本国王として冊封を受け、
北朝(室町幕府)の足利義満
勘合貿易などの利益を独占するため冊封を受けたが、
北朝南朝共に天皇は冊封を受けなかった
前者は天皇の尊厳を傷つけず、国内政治を優位に進めるため、
後者は天皇の地位を剥奪するために「日本国王」の称号を利用した。
懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、
使者を斬り捨てたことに現れるように、あくまで対等外交を目指した。

当時の日本は南北朝時代で国内が混乱していた。
そのため東アジア一帯に倭寇(日本の海賊)が活発に活動した。
前期倭寇は日本人が大半で元寇の報復的な目的があったとされる。
明王朝にとって海上貿易の障害である倭寇の取締りは急務だった。

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明との貿易は西国大名を中心に戦国時代まで続けられることになるが、
大航海時代の到来によってヨーロッパの異国船が来航し、
キリスト教の布教がアジア各地に広まり、
フィリピンがスペインの植民地になると
日本を統一した豊臣秀吉はこれに対抗するためバテレン追放を行い、
明征服を画策し朝鮮に出兵。(唐入り)この関係は崩壊した。

その後、徳川家康鎖国を開始、
明は満州族に滅ぼされ、元以来の征服王朝であるが興る。
李氏朝鮮は明に続き、清にも服属。
清朝は北アジアや東南アジアなどに冊封国を広げ、
その範囲は歴代最大となったが、
江戸幕府は鎖国を続け、清朝や李氏朝鮮と正式な通交はなかった。

西洋列強がアフリカやインドなどを植民地にする中、
中国は依然として強大な「眠れる獅子」として恐れられていたが、
近代に入り、清がアヘン戦争
夷狄に過ぎないイギリスに破れるとついに冊封体制は斜陽の時代に入る。

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