冊封の崩壊と大陸の混乱

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アヘン戦争~日清戦争

Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843)
 E. Duncan「Destroying Chinese war junks」 (1843)

アヘン戦争の結果、香港がイギリスの植民地となると、
ポルトガルも単なる居留地としていたマカオを植民地とし、
ロシアも沿海州を領有した。
こうした事態にも関わらず、清は大国の面子を維持するため、
一地方の敗戦に過ぎないという余裕を見せたが、
国内では日本の島原の乱同様にキリスト教の影響下から太平天国の乱が起こり、
一時独立国となるなど清朝の腐敗は誰の目にも明らかだった。

一方、中華世界から決別し鎖国体制下にあった日本は
かつての大国清の敗北に衝撃を受け、
文明開化を行い西洋文明を受け入れることで明治維新を断行した。
清は夷狄の文明を受け入れた日本の判断を愚かな行為と非難した。
この東洋二国の西洋文明の対応の違いは新たな衝突を生む事になる。

日本は台湾に漂流した琉球の漁民が
現地人に殺害された事件の責任を清に訴えたところ、
清は台湾を「化外の地」であるとして責任を回避したため、
琉球が日本である事が示されたとして台湾出兵を行い。
琉球処分によって、清朝と江戸幕府(薩摩藩)の両続状態であった琉球を
沖縄県として日本に編入した。
琉球という朝貢国を失った清は抗議して、
北琉球(奄美諸島)を日本領、南琉球(先島諸島)を清領、
琉球本島に琉球王国を復活させる三分割案を持ちかけてきた。
仲介に入ったアメリカが南琉球を清領、残りを日本領とする二分割案を提示して
調印寸前に至るも日清戦争開戦によって流れた。
近代国家を作ろうと西洋法によって国境を確定したい日本
従来の冊封体制を維持したい清との間で意思の齟齬が生まれ、
この経緯は現在の尖閣問題まで続く日中の紛争となっている。

Sino Japanese war 1894
日本軍歩兵の一斉射撃

清仏戦争ベトナムがフランス領になり、
日清戦争で最後の朝貢国朝鮮が独立。その後日韓併合となる。
琉球分割問題も解決するどころか「化外の地」台湾も日本領となった。
欧米列強のアジア侵略と日本の明治維新によって
冊封体制は名実ともに消滅した。

辛亥革命~共産党による統一

相次ぐ列強の侵略は扶清滅洋を訴える秘密結社、
義和団の乱を引き起こしたが、
これを清朝が支持し列強に宣戦したため、自滅の道を歩むことになった。
兵器のみを近代化し、
政治経済などの基本制度を西洋化する事が無かった清朝は
孫文を筆頭に明治維新を学び日本に留学した漢民族による
辛亥革命によって倒され、アジア初の共和国中華民国が誕生する。
清朝領だった外モンゴルはソ連の後ろ盾で
アジア初の共産国モンゴル人民共和国として独立。
チベットもイギリスの後ろ盾で独立国状態となった。

孫文は南北分断を恐れ、
憲法遵守を条件に清朝の有力者だった袁世凱に初代大統領の座を譲る。
しかし、袁世凱は皇帝として即位し、帝政を復活させ、
中華帝国と国号を変え独裁を始めた。
孫文は何度も来日する知日派で、

明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である

と発言するなど
日中の連携を主張しており、多くの日本人も中国革命を支援していたが、
袁世凱政権時の対華21カ条要求から関係が硬化する。

孫中山先生
YuanShikaiPresidente1915

孫文と袁世凱

袁世凱はこの要求を飲み日本に近づくことで
皇帝という地位を維持しようとしたが、
反日運動が盛り上がったことで、
日本に強要されたと訴えて国際的に日本を非難し始めた。
袁世凱の死去後、共和制は復活するものの、
絶大な権力を誇った袁世凱の空白によって、軍閥が跋扈し、
中国は再び内乱状態となった。
こうして中国革命は遅々として進まなくなった。

欧米列強は内乱に乗じて中国に干渉し、
孫文は中国再統一のために国民党を結成するも、
ソ連コミンテルンの影響下に共産党が誕生、
国共内戦が始まり、内乱は収まる気配がなかった。
日本は日露戦争の結果から中国東北部に影響力を持ち、
ソ連への対抗から、ここを伝統的な故郷とする満州族の国家として
清朝最後の皇帝溥儀を担いで満州国を建国した。

Puyi-Manchukuo
ラストエンペラー溥儀

その後、大陸での偶発的衝突から支那事変(日中戦争)となり、
日本と中華民国は戦争状態となった
日本は首都南京を占領し、親日派の汪兆銘政権を承認するも
反日派の蒋介石政権は重慶に移動して米英の援助を受けて徹底抗戦の構えだった。
日中和平は最後までうまく行かず、
日本と国民党が潰しあっている背後で毛沢東の共産党は戦力を温存した。

Chiang Kai-shek in full uniform
Mao Zedong portrait

蒋介石と毛沢東(出典:张振仕/天安門城樓上的毛澤東肖像)

満州万里の長城の外にあるように、
漢民族による中華ではなく、金や後金など満州族の故郷だった。
満州国は辛亥革命で排除された満州族を囲い
溥儀を頂点に徳による支配を強調し、
日満支の連携を象徴するため仏教思想を背景に
王道楽土、五族協和を謳い経済・文化的に繁栄したが、
第二次世界大戦末期のソ連侵攻により崩壊し、
カイロ条約により中華民国に返還され、
その後再開された国共内戦の結果、
大陸を制覇した共産党が建国した中華人民共和国の領土となる。

中華民国中華人民共和国も正式な国号に「中華」を使用しており、
現在も中華思想を継承していると言える。
辛亥革命を応援し孫文を支援していた日本の要人は中華を国名に使うことに反対していた。

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