明智光秀は安土桃山時代、
本能寺の変を起こし、主君である織田信長を暗殺した武将であり、
出口王仁三郎は明治時代後期、有栖川宮熾仁親王の落胤とされながら
新興宗教、「大本」教を開き、国家神道と対立した宗教家である。
共に京都亀山城に本拠地を構え、
小説家の司馬遼太郎は2人の謀叛人を出したと評した。
亀山城のある丹波国は古来から平安京の北西の出入口に当たるという地理的条件のため
権力者にとって重要視されたエリアであった。
本能寺の変 朝廷陰謀論
明智光秀は豊臣秀吉と同じく織田信長の家臣だったが、
農民の出である秀吉よりも良い待遇であり、信長自身もその才能を重宝していた。
中国攻めのため秀吉を遠征させる一方で
光秀は京に近い丹波国を治めさせ、近畿を守っていた。
しかし、光秀は主君である信長を本能寺で殺害した。(本能寺の変)
その時遠征していた秀吉が急遽、京に戻り(中国大返し)
主君の仇討を決行し、光秀を倒して天下統一を成し遂げたという美談から
現在、明智光秀は「裏切り者」との悪評が根強い。
しかし、織田信長は当時、キリスト教に寛容なだけでなく仏教と激しく対立、
比叡山焼き討ちなど多くの寺を焼き冷酷な行いを続けていた。
また室町幕府を倒して京に入った信長に対して
朝廷は「将来の征夷大将軍」として右大臣という重要ポストを打診したものの
それを拒否して京都で軍事パレードを行い、逆に朝廷を挑発する行動を取った。
鎌倉幕府も室町幕府も朝廷の権威を利用して全国統治を目指したのに対して
信長は天皇の地位をも狙っていたとされている。
一方、明智光秀は尊皇派であった。
一説には朝廷の忍者(後述の八咫烏)であったとされる。
つまり本能寺の変は朝廷を守るために行ったクーデタであった。
これは「朝廷陰謀説」と言われている。
天皇親政を目指した後醍醐天皇に足利尊氏がいたように(南北朝正閏論と自称天皇)
天皇廃止を目指した織田信長にも明智光秀がいた。
結社 八咫烏
「八咫烏」とは神武東征神話に出てくる三本足のカラスの事で
神武天皇を熊野国から大和国へ道案内した太陽の化身で、勝利のシンボルとされており、
日本サッカー協会やサッカー日本代表のシンボルマークにも採用されている。
結社八咫烏は神話同様、
天皇を補佐し、国体を守る秘密組織であり、一部の陰謀論者が存在を主張している。
天皇の地位を脅かした織田信長を暗殺した明智光秀も構成員の一人であったとされる。
賀茂氏の祖とされる吉備真備が藤原氏の朝堂独占に対抗するために
聖武天皇の密勅により丹波国で結成したのが始まりとされる。
迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、
京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで
天皇や皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたとされる。
明治維新や敗戦によって影響力は限りなく小さくなっているものの現存するという。
八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を拠点にしているといわれており、
現在は約70人のメンバーがおり、幹部は「十二烏」と呼ばれる12人。
さらにそのうちの3人は「大烏」と呼ばれ、
この三人の大烏(三羽烏)は三位一体で「金鵄」という称号で呼ばれ、
俗称で「裏天皇」とも呼ばれる。
裏天皇は表の天皇(いわゆる天皇陛下)に代わって神道の祭祀を司るとされる。
カバラやキリストの12使徒、三位一体など
ここでもユダヤやキリストのモチーフが強調されており、日猶同祖論と共に語られることが多い。
大本事件 国家神道の揺らぎ
大本教(大本)とは明治時代後期に出口なおの
神懸かりによって誕生した神道系新興宗教である。
社会構造の変化や都市化を背景に、出口王仁三郎を中核として教勢を強めた。
大本は亀山城址(明智光秀の居城)を買収し、宗教都市として整備し始め
大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する。
陸海軍関係者のみならず、
天皇のお膝元である宮中関係者まで入信者を増やし急成長。
右翼団体とパイプを持ち満州政策に影響力を持ち
中国へ渡航し内蒙古の独立を画策するなど政治的に台頭しつつあった。
昭和前期に最盛期を迎え
国家神道(皇国史観)と相容れない存在となり政府と対立した。
そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、
王仁三郎はスサノオの化身を名乗っていた。
この大本の教えは天照系で現人神たる天皇の宗教的権威を脅かしかねなかった。
政府は不敬罪によって関係者を検挙。
また治安維持法によって徹底的な弾圧を与えた。(大本事件)
これは治安維持法が宗教団体に適用された最初の例だった。
2.26事件によって天皇親政を目指した皇道派陸軍青年将校もいれば
大本教によって国家神道を根底から脅かした出口王仁三郎がいる。
国家神道は今でこそ行き過ぎたように言われるが、
当時は非常に中庸的だったとも言える。
出口王仁三郎と有栖川宮熾仁親王
出口王仁三郎は聖師と呼ばれた。
強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、
メディアを含め様々な手法を駆使して大本を日本有数の宗教団体へと成長させたが
出自に関して有栖川宮熾仁親王の落胤という根強い噂があった。
大本事件は大正天皇の皇位継承権に関わる問題だったという異説もある。
熾仁親王は現代で知るものは少ないが、戦前は著名な皇族であった。
東征大総督として戊辰戦争で江戸城無血開城を果たし、陸軍軍人として明治天皇を支えた。
日本最古の軍歌といわれる「宮さん宮さん」(維新マーチ)の宮さんとは熾仁親王の事である。
孝明天皇も明治天皇も皇子が一人しかいなかったため
明治天皇の父である孝明天皇が慶応2年に崩御してから、
明治天皇の子である大正天皇が生まれるまでの間「皇太子」は存在しなかった。
その時期に皇位継承順位第一位だったのが熾仁親王である。
有栖川宮家は112代霊元天皇の血統を継ぐ世襲親王家のひとつ。
熾仁親王は二人の妃との間にも王子女に恵まれず異母弟の威仁親王が養子に迎えられるが、
威仁親王の皇子である栽仁王が結婚しないまま夭折したため威仁親王の薨去により断絶。
東京都港区の御用地跡が有栖川宮記念公園として残されている。
王仁三郎は熾仁親王が結婚前に京都に滞在していたときに、
船宿の女中との間にできた落胤とされる。
つまり王仁三郎は皇位継承順位一位の皇子ということになる。
大本事件の裁判における落胤問題で
話が鶴殿親子(醍醐忠順次女。昭憲皇太后の姪)に及ぶと
高野裁判長は不敬罪に関わる重大な問題にもかかわらず話題を変えた。
鶴殿は皇族でありながら大本を訪問すると即日入信して熱心な信者になり、
王仁三郎が有栖川親王に似ていることを周囲に語っていた。
第二次大本事件で、大本弁護団は落胤事件を提起し
警察・検察を不敬罪で告訴することを検討したが、
獄中の王仁三郎が暗殺されることを憂慮して取止めている。
明治天皇の崩御を受けて大正天皇が第123代天皇として即位するが、
践祚直後に起こった大正政変では、
天皇の詔勅を利用して反対勢力を押さえ込もうとする桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発し、
明治天皇と異なり政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。
また病弱で公務を欠席することが多く、
昭和天皇が皇太子時代に若干二十歳ながら早くも摂政を行っていたことから
天皇としての資質に問題があった。
こうした状況下で、熾仁親王の落胤である王仁三郎と教勢を強める大本の存在は脅威であった。
大本が一大宗教団体へと急成長した背景、
政府による徹底的な弾圧の背景にはこうした事情があったと考えられる。
出口王仁三郎の存在はその後の神道系新興宗教に大きな影響を与え、
多くの新興宗教が大本から分派した。
この大きな力を生み出した大本の背景を考えると
王仁三郎が皇族と特別な関係があったと考えるのは必然である。
政府は南北朝の再来を防ぐため大本をカルトとし徹底的な破壊を行った。
戦後、王仁三郎が死去すると大本は平和路線に転換し教派神道に属したが、
内部分裂を引き起こすなど以前ほどの教勢を維持できないでいる。
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