手塚治虫と戦後日本

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手塚治虫は戦後間もない1946年から平成元年の1989年まで活躍した
漫画家、アニメーター、映画監督である。
ストーリー漫画の生みの親とされ、
貸本時代から月刊誌、週刊誌など媒体を変えながら
生涯漫画を描き続け、死してもなお「漫画の神様」と呼ばれている。
また「鉄腕アトム」日本初の30分連続TVアニメを制作、放送するなど
テレビアニメのパイオニアでもある。

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手塚治虫と天皇

手塚治虫は1928年(昭和3年)明治節である11月3日に生まれ、
明治天皇の1字から「治(おさむ)」と名付けられた。
比較的裕福な家庭に生まれ、父親の趣味の影響で
幼少期から様々な映画を見て、漫画家を志すようになる。
中学時代には戦時色が強くなり、学校教練で軍需工場に駆り出され、
大阪大空襲に巻き込まれるなどしたが、
厳しい状況にもかかわらず、ひたすら隠れて漫画を描き続けた。
その才能は戦後に開花し、
映画的な構成とスピーディな物語展開で戦後漫画界を席巻した。

赤本や貸本の単行本から月刊誌、週刊誌へと発表の場を移し、
複数の雑誌で連載を抱え、多忙を極めたために生まれたアシスタント制度など
現在に至る漫画の基本的な技法や制作スタイルが手塚を起点として始まった。

幼少期からディズニーアニメーションのファンであった手塚は
1953年に日本でテレビ放送が始まると
アニメーション制作会社虫プロダクションを設立し、
1963年に日本初の本格的な30分の連続TVアニメ「鉄腕アトム」を制作・放送。
関連商品の売り上げも大きく、
多くのアニメ製作会社も追随し第一次アニメブームが起こった。

当時の雑誌、テレビは主要なマスメディアであり、
その黎明期から関わり続けた手塚治虫は
戦後日本のビジュアルイメージを支配した人物と言える。
初期に描かれたSF作品は敗戦後の日本が歩むべき理想的な未来を描き、
SFファンダムなどの文学界のみならずロボット工学にも多大な影響を与えた。
もちろん劇画全盛期など冬の時代はあったものの
医師の資格を持つ手塚の知識を活かした「ブラックジャック」で復活し、
24時間テレビでのアニメ制作や沖縄海洋博の展示プロデュースなど
国家プロジェクトにも参加し、その名声を確固たるものにした。
スタンリー・キューブリック監督のハリウッドSF超大作
「2001年宇宙の旅」で美術監督としてオファーがあったのは有名な話である。

1989年1月7日の昭和天皇崩御の後を追うように
2月9日に手塚治虫は60歳の生涯を閉じる。
戦後から昭和の終わりまで 漫画界、SF界、アニメ界などサブカルチャーを牽引してきた
その影響力は現人神であった昭和天皇にも匹敵すると言っても過言ではないだろう。

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