日本近代史⑤~アジアの変化と世界大戦~

日露戦争後の日本周辺地図

ポーツマス条約により
日本はロシアから南樺太を割譲、沿海州沿岸の漁業権を与えられます。
そして三国干渉で奪われた関東州の租借権を獲得します。
朝鮮半島での日本の優越権が認められ、ロシアは満州からの撤退を余儀なくされました。

しかし賠償金を得ることはできませんでした。
これはなんとしても講和を成功させたい日本がロシアに譲歩した結果でした。
この事に反発した日本国内では日比谷焼打事件が起こります。
樺太も戦時中に全域占領していたので
全島割譲が妥当だと合意内容に納得せず
多大な犠牲に対して得られたものが少なすぎると継戦を主張しました。
日本政府としては戦争に勝つためのぎりぎりの交渉でした。

日本は実際の戦闘だけでなく、
様々な外交工作を行いようやく勝ったのでした。
日本の勝利は当時属領として帝政ロシアに苦しめられたポーランドやフィンランド、
白人の植民地下にあったアジア・アフリカ諸国に大きな希望をもたらしました。
アジア人の小国でも白人の大国に勝てる事を証明したのです。
これは16世紀の大航海時代以来
近代文明を築いた白人が唯一の人間であって、
黄色人種は召使い、黒人は奴隷と言うような
白人至上主義的世界観を否定する事でした。
日露戦争以降、明治維新の成功に学ぼうと
中国やインド、東南アジア、様々な国から独立運動家が日本に留学します。
反対に欧米では黄渦論がますます広まるきっかけとなります。

明治政府は日清日露戦争の勝利により、悲願の不平等条約改正をついに実現します。
日本は国家目標を達成しました。この時、完全な独立国家となったとも言えます。
そして、最大の懸念だったロシアの南下を抑える事にも成功しました。

日本は日清日露戦争の最大原因とも言える政情不安の韓国を保護国とします。
しかし、反対する韓国人も少なからずおり、
むしろ併合に反対していた初代総理大臣伊藤博文が
民族派のテロリストに暗殺される悲劇が起こります。
その後、1910年に日韓併合が行われ朝鮮民族の国家は無くなります。
これは韓国や日教組のいう植民地化とはほど遠いもので
韓国の最大の政治結社一進会の要請を受け国際法にも合法的に行われたものでした。
大韓帝国皇帝は異民族でありながら華族より上の準皇族を新設して迎い入れられます。
日本政府が朝鮮民族で成しえなかった近代的インフラを進めました。
これらは下関条約で獲得した台湾よりも良い待遇でした。

1911年、日本に留学していた孫文を中心に
漢民族による辛亥革命が起こります。
満州族の清朝が倒され、アジア最初の共和国中華民国が誕生します。
この革命に乗じて清朝の支配を受けていたチベットとモンゴル(外蒙古)
それぞれイギリス、ロシアの支援を受けて独立します。
新疆(東トルキスタン)や内蒙古もロシアの後ろ盾で独立を画策しますが、
イギリスと衝突を避け緩衝地帯を作ろうとしたためロシアの協力が得られず、
漢民族(中華民国)の支配下となります。

辛亥革命は日本に来た留学生が革命の中心で、
政界、民間問わず多くの日本人が革命を支援しました。

孙中山肖像
「中国革命の父」孫文

孫文は

明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である

とし日本との連携を重視していました。
明治維新を成功させた日本は次に東アジア全体の改革へと視野を広げていきます。

一方、敗戦国ロシアは極東の南下をあきらめ、ヨーロッパに目を向けます。
これがドイツとの対立となります。
白人にとって日露戦争は植民地主義初めての失敗でした
極東に現れた日本の登場と共に各国の植民地主義は行き詰まり
これが爆発し、1914年第一次世界大戦が起こりました。

German infantry 1914 HD-SN-99-02296
前進するドイツ軍

第一次世界大戦は世界が初めて経験した総力戦でした。
ヨーロッパが主戦場でしたが、日英同盟により日本も対独宣戦します。
日英連合軍で中国のドイツ租借地山東省青島(膠州湾)を攻略して、
日本軍も南洋諸島のドイツ軍を攻撃しました。
地中海へ駆逐艦の派遣も行っています。

欧州列強は世界大戦により中国における影響力を弱めました。
日本はこの隙に中華民国に21か条要求をします。
ドイツ敗戦後の山東省租借権をドイツから日本に譲渡するというもので、
これはロシアにしてやられた三国干渉の物まねとも言えます。
清朝支配で民族自決の意識が芽生えていた中国民衆は反発しましたが、
初代大統領袁世凱は自己保身に走り、
孫文を警戒して外国勢力を引き入れる事に積極的だったので
日本の要求の大半を受け入れてしまいます。

多くの列強も中国における日本の特殊権益を認めましたが、
ドイツとアメリカは了承しませんでした。
アメリカは日本と妥協点を探り石井・ランシング協定を結び、
アメリカは満州、東内蒙古の日本権益を認め、
日本はアメリカの門戸開放要求を認めるという形となります。
これは機会均等というアメリカの従来の方針を曲げて、
日米共同で中国の権益を保全するというもので中国は反発します。
この山東問題の経過や行き違いが
後の満州、支那事変、日米対立へと繋がっていきます。

辛亥革命から6年後、もう一つの革命が起こります。
1917年ロシア革命です。
辛亥革命同じくロシアの王朝が倒された世界で初めての共産主義革命でした。
連合国だったロシアは革命により単独でドイツと講和を結びます。
各国はチェコ人兵士救出と言う名目で
革命介入のため1918年シベリア出兵を行います。
欧州諸国は戦争で兵力を回せないので主力は日本とアメリカでした。

当初、日本は出兵に積極的ではありませんでしたが、日米共同出兵を行います。
戦争の目的があいまいで兵士の士気は低かったそうです。
ところが1920年に
共産パルチザンによる日本人虐殺事件尼港事件)が起こります。
これを期に日本の態度は硬化し北樺太を保障占領し、
アメリカが撤退した後も出兵を長引かせ、欧米から批判されます。
皇室を頂く日本は共産主義と相容れません。
ロシアの次は共産主義の南下が迫っていました。
日本は白系(非共産の意、赤の対比)ロシアを擁護し、
シベリアに共産圏との緩衝地帯を作るため非共産の国家を作ろうとしていました。

1918年、第一次世界大戦はロシア離脱の後、
アメリカの連合国側参戦を受けて連合国の勝利となり、
日本は数少ない被害で再び戦勝国となります。
第一次世界大戦は塹壕戦の前線突破として
毒ガスや戦車、飛行機と言う新兵器が登場、大量生産、大量破壊を完成させます。

British Mark I male tank Somme 25 September 1916
世界初の戦車 英 マークⅠ戦車

これまでの戦争とは比べ物にならないほどの
人的被害を消耗した悲惨な戦いでした。
騎士道的な戦争は終わり、銃後の女子供も巻き込んだ恐ろしい戦争の始まりです。
しかし、ヨーロッパから遠く離れた日本は
この本当の意味をよく理解できていませんでした。

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