明治新政府は中央集権的近代国家を確立するため土台となる国境を確定しました。
1875年、千島・樺太交換条約によって
日露雑居の地だった樺太をロシア領に全千島列島を日本領にして北の国境を確定。
1876年、小笠原諸島の領有を宣言。
1898年に南鳥島を小笠原支庁に編入、東の国境を定める。
(後にアメリカと紛争になるが1902年に確定)
問題は南の国境でした。
琉球は江戸前期の薩摩侵攻以来、薩摩藩の影響下にありましたが、
対外的には独立国であり、清に朝貢し、冊封を受けていました。
(実体は薩摩藩による密貿易)
琉球王国は表面的には日本と清の両属状態にあったわけです。
その中で台湾に漂着した琉球島民54人が現地人に殺害される事件が起こります。
日本は責任を清に問いましたが、清は台湾を「化外の地」であるとして責任を回避しました。
これを持って琉球は日本であるという認識を確かにし、
1874年事件調査のための台湾出兵、
1879年、廃藩置県に伴う琉球処分を行い琉球王国は滅亡、
琉球王族を華族として迎い入れ、琉球は沖縄県として日本に編入されます。
そこで琉球に未練を感じた清が抗議し領土紛争になります。
ここでアメリカが紛争解決の仲介に入り東アジアで影響力を高めようとします。
清は南琉球(宮古八重山)を清領土、琉球本島を琉球王国として復活させ、
北琉球(奄美諸島)を日本領とする琉球3分割を提示します。
アメリカ案は南琉球を清領土、沖縄本島含め以北を日本領とする琉球2分割でした。
日本はアメリカの圧力もあり止む無きとみて二分割案で調印寸前まで行きます。
この紛争の原因は国家観の違いでした。
日本は近代国家として国境を明確にする必要を感じましたが、
清は従来の秩序(冊封)を守ろうと国境を曖昧にしようとしていました。
清との対立は琉球だけではありませんでした。
日本の目と鼻の先にある朝鮮半島は李氏朝鮮があり、
清の冊封の中でも最も属国化が進んだ国でした。
日本の防衛上、日本海の対岸にある朝鮮半島は重要でした。
鎌倉時代の元寇の際も元軍の日本侵攻の拠点となりました。
幕末1861年にはロシア軍が対馬に上陸し半年ほど占領される事件も起こりました。
日本は外国諸勢力に劣勢を強いられる清の影響下から朝鮮を独立させ。
迫りくるロシアとの間に緩衝地帯を設け、親日化、近代化を進めたい考えでした。
一方の清は日本の琉球処分や
1884年清仏戦争による阮朝越南(ベトナム)の滅亡によって
朝貢国を相次いで失う中、
朝鮮は最後の朝貢国であり、なんとしても手放せなかった。
これは朝鮮国内でも独立派と親中派で意見が真っ二つに割れます。
甲午農民戦争が起こり、日清両軍が派遣、
そこで武力衝突が起こり1894年日清戦争がはじまります。
結果は日本の勝利でしたが、日本は近代兵器を揃え、清は旧式だったという認識は間違いです。
清もアヘン戦争以後は兵器の近代化を進めています。
特に北洋艦隊は最新鋭のドイツ製戦艦で
当時「東洋一の堅艦」と呼ばれた定遠、鎮遠がありました。
一方、貧しい日本も戦艦保有を目指しフランスに受注しますが、
資金不足で防護巡洋艦に留まります。
せめて主砲だけはと軽い船に定遠級を超える巨砲を積んだ
極めてバランスの悪い松島級(三景艦)が生まれます。
定遠、鎮遠はいずれも「遠い所を征服する」という意味です。
この2隻は就役間もない1886年、長崎に入港し、
日本側の許可も得ず水兵が下船して長崎市内の遊郭などで
略奪や暴行を働き、現地警察と銃撃戦が起こります。(長崎事件)
事件処理に当たり清は一切謝罪をせず、むしろ高圧的な態度を取り、
警官の帯剣を禁じる等、清に有利な形で処理されました。
これは尖閣事件にも似た圧倒的軍事力を背景に行われた示威行動でした。
当時、日本は定遠級に対抗できないと見られました。
この事件は対中感情の悪化に繋がり日清対立の遠因になります。
当時の戦艦は今でいう核兵器と同等の国力を計るバロメーターであり戦略兵器でした。
このように日清戦争以前は清の方が強国であり、列強もそのように見ていたのです。
日清戦争は欧米による一方的なアジアの侵略戦争とは違い
今後のアジアの主導権を巡るライバル同士の戦いでした。
資金力で兵器だけを近代化した清は地方から寄せ集めた兵で士気が低く
国民国家として成長し兵士の士気も高かった日本にあらゆる戦いで敗北し、敗れます。
近代アジアの主導権は日本に渡り、
長きにわたって東洋を支配した冊封体制は日清戦争の結果ついに崩壊します。
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