日本は強かったのか?

もうすぐ75年目の終戦の日を迎えます。

この時期はテレビでも大東亜戦争(太平洋戦争)の特集が組まれ、
反戦ムードが強まる傾向ですが、
ここではちょっと視点を変えて当時の日本の強さについて検証していきたいと思います。
日本がこの戦争に勝てていたのならば本土空襲や原爆投下、沖縄戦を避けて
多くの悲劇が回避されていたかもしれないので
再び戦争の惨禍を繰り返さないという決意は大事ですが、
その根拠として戦争抑止となるべき強靭な国力が必要です。
スポンサーリンク

国家総力戦における日本の弱点

日本が世界レベルの兵器開発能力や先進的な戦術を有していたのは
「世界に誇る日本軍の兵器10選」で述べてきた通りですが、
基礎的な工業基盤が同じ枢軸国のドイツと比べて貧弱であった事は否めません。
このため日本は優秀な兵器や武器でも
戦争終盤になると質が悪いものにならざるを得ませんでした。
日本軍兵器の評価が賛否あるのはこうした理由があるのです。
これは確かに総力戦において重要な要素です。
 
欧米でも第二次世界大戦のメインはあくまで
ヒトラー率いるナチスとの戦であって、日本はおまけのような感じです。
実際、アメリカとイギリスの間で対独戦を優先することが決められていました。
これはアメリカ参戦時、ヨーロッパでナチスと戦えたのはイギリス一国のみであった
という危機的状況が背景にありますが、ナチスはタイガーをはじめとする強力な戦車や
ジェット機、ロケット機、v兵器など日本を遥かに上回る先進的兵器を製造しており、
原爆開発も相当進んでいると考えられていました。
 
またヨーロッパではファシズムと戦うという明確な目的がありましたが、
対日戦においては「リメンバー・パールハーバー」のみ、
欧米人にとって遠い太平洋の話で戦争目的が掴めていなかったと言えます。
 
日本軍はたしかに真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を壊滅状態に陥れ
ドイツもできなかった潜水艦や航空機、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を実行、
アメリカ領であるアラスカのアッツ島、キスカ島も占領していました。
こうした事からルーズベルト大統領も
一時は日本の本土侵入を阻止できないと考え、
ロッキー山脈まで後退する計画も存在していましたが、
肝心のハワイも占領できず、大西洋側の首都ワシントンまでは相当の距離があったので
連日のロンドン空襲に怯えるイギリスの緊迫感とは比べものにならなかったでしょう。
まぁアメリカ本土に侵攻することに意味があるとは思えませんが…
 
日本が序盤優勢だったのは単にこの連合国の戦略のためで
本格的に反抗を開始したミッドウェー海戦以降は惨敗続きだった
という厳しい意見もあります。
 
そもそも日本軍のミッドウェー攻略も真珠湾攻撃のやり残しでした。
真珠湾攻撃の際に空母を撃沈し、ハワイの石油工場を徹底的に叩いていれば
アメリカの反撃はもっと時間がかかったはずでした。
しかし日本は第二波攻撃を中止して引き上げてしまいます。
ミッドウェー海戦直前の時点で戦力的には圧倒的に日本が有利でした。
しかしこれを活かしきれなかったことから
日本軍は戦略的な概念が希薄だったと言わざるを得ません。
日本は序盤にドイツ以上に広範囲を勢力下に置く事に成功しますが、
今まで経験したことのないことでもあり、兵站を軽んじ補給線が伸び切り
人員を消耗しながら本土決戦までの時間稼ぎにしか使われませんでした。
アメリカは兵站もコントロールされていたし、
日本の暗号を解読して最善の行動をとりました。
日本も実際にはレーダーの元になる高性能な八木アンテナを発明していたし、
枢軸寄りの中立国スペインで活躍したF機関などの諜報組織によって
かなり正確で有益な情報を得ながら、
こうした技術や情報を軍部は有効活用できませんでした。
戦争末期には風船爆弾を使用した細菌戦も検討されましたが、
最後まで天皇陛下の裁可がおりませんでした。
 
日本は物量で負けたと思われがちですが、実際には情報で負けたのです。
ミッドウェーでの正規空母4隻損失や
真珠湾攻撃を立案した山本五十六長官搭乗機のピンポイント攻撃も
全て日本の暗号文がアメリカ側に筒抜けだったために起こったのです。
日本の作戦重視、情報軽視はここまで来ると
お互いフェアな状態で正々堂々と勝負をしたいという
日本軍人の美意識の問題のような気もします。
こういった武士道精神、騎士道精神は
第一次世界大戦における総力戦で欧米ではとっくに崩壊し、
戦争のルール自体が変わってしまったのですが、
本格的な総力戦を経験していなかった日本では根強く残っていたのかもしれません。

日本の精神論が戦局を変えた

ここまでは日本が弱いという立場からよく語られるところですが、
総力戦における戦争の強さは兵器の優劣や工業力以外の要素も加わってきます。
見落としがちなのは人口です。
ドイツが独ソ戦でソ連に負けたのも
日本が中国大陸を完全に攻略できなかったのも全てここに起因します。
一億玉砕と言われたように大日本帝国の人口は
朝鮮や台湾、南洋諸島など植民地を含めて一億に迫る状況でした。
米ソには人口でも負けますが、イギリスやフランス、ドイツよりも多い数字です。
 
連合国の想定では島国日本は海上封鎖で簡単に勝てると考えていたし
ドイツよりも早く降伏すると見積もっていました。
しかし、制海権や制空権を失い主要な都市が空襲で焼け落ち、
同盟国であるイタリアやドイツが降伏してもなお、
日本はたった一国で全世界を相手に戦ったのです。
日本軍人には降伏するなら死を選べという教育(戦陣訓)が浸透しており、
ほとんどの戦場で玉砕(部隊が全滅するまで戦う)が行われました。
欧米の戦争の常識ではすでに降伏しておかしくない状況にもかかわらず
日本人は絶対に負けを認めなかったのです。
アメリカ軍将校はどんな苦難にも耐えて
命令に順従する日本兵を羨望の眼差しで見ていたことでしょう。
 
また日本軍は占領地の住民に武器を渡して軍事訓練を行ない。
銃後の女子供にも竹槍訓練を行い本土決戦に備えていました。
連合艦隊最後の舞台となったレイテ沖海戦からは特攻も始まります。
アメリカ軍は真珠湾以降おおむね日本軍の戦闘行動を予見できたそうですが、
特攻戦術は欧米の常識からは考えられないもので真珠湾以来の衝撃を受けました。
ペリリュー、硫黄島では強力な陣地を築いた持久戦に持ち込み
米軍により多くの被害を与えました。
そして沖縄戦で米軍は日本軍と沖縄県民一丸となった抵抗に遭い
アメリカ史上最大の被害を被ります。
こうしてアメリカは日本人が死滅するまで出血を覚悟せねばなりませんでした。
 
第二次大戦中、互いに民族の存亡をかけて戦った独ソの犠牲者数が突出していますが、
女子供に至るまで組織的に訓練を受けている日本の本土決戦となれば
後のベトナム戦争のようにアメリカ側にも国内世論に影響を与えかねない
犠牲が生まれる事が容易に想像できます。
その証左に戦傷章であるパープルハート章
日本本土戦での推定死傷者数に合わせて50万個製造され、
2010年頃にようやく底をついたと言われています。
そもそもルーズベルトは第一次世界大戦の犠牲から
戦争をしない事を公約に異例の三期目の大統領選当選を果たしました。
 
PurpleHeartCase
パープルハート章
連合国はドイツに対して史上最大の作戦と言われた
ノルマンディー上陸作戦を決行しますが、
日本に対して計画された上陸作戦である
九州上陸のオリンピック作戦、関東上陸のコロネット作戦を合わせた
ダウンフォール(滅亡)作戦の規模はそれをはるかに上回ります。
アメリカは自国民の出血を少しでも減らすために
日本と中立条約を結んでいたソ連に対日参戦を要請し、
禁じ手であるマスタードガス使った大規模な毒ガス攻撃を計画していました。
アメリカはナチスのホロコースト同様に
完全に日本人を駆逐する魂胆でした。
アメリカ国内ではドイツ人は基本的に善良な人々で
ただヒトラーという独裁者に騙されているだけだと考えられていましたが
日本人は一般市民に至るまで理解不能の猿の集団と言われていたのです。
 
Operation Downfall - Map.jpg
ダウンフォール作戦
パブリック・ドメイン, リンク

アメリカの態度が変わるのはソ連に近い人種差別主義者の
ルーズベルトが急死してトルーマン大統領になったあたりで
マンハッタン計画において原爆開発に成功し、
アメリカ単独でも日本を屈服させることができるという自信が現れたことと
先に降伏したドイツの戦後処理を巡りソ連の領土的野心が明確になり、
その後の冷戦構造が生まれ始めた事です。
広島、長崎への原爆投下は非武装の一般市民を狙った戦争犯罪であるし、
人道的な問題があるのですが、
原爆投下を肯定的に捉えるアメリカ人が多いのは
原爆によって本土戦における犠牲を救ったという実感があるのです
そしてソ連侵攻と同日に長崎に投下したのは
日本よりもソ連に対するメッセージだったことは明白です。

日本では降伏は時間の問題で原爆投下は無意味な殺戮だったとも言われていますが、
連合艦隊が壊滅し、既に主要な戦力を失っていた海軍と違い
陸軍は中国戦線で連勝を続けており、
残存兵力も多く、本土決戦を支持する声が根強かったのです。
日本は正確にアメリカ軍の上陸予定を把握しており、
来るべき米軍の本土上陸に向けて
首都機能を海岸線に近い東京から内陸の長野に移転すべく
実際に松代に巨大な地下壕(松代大本営)が建設されていたし、
玉音放送が放送されるギリギリまで継戦を主張し、
終戦阻止を狙い玉音の原盤を巡ってクーデター未遂事件も起きています。

日本国内では中立国であるソ連の仲介を期待し、
またソ連と共にアメリカと徹底抗戦する考えもありましたが、
ソ連の一方的な条約破棄と参戦により
共産国家のソ連とは交渉しないという考えが支配的になりました。
日本がドイツ敗戦後も一国で戦い続けた結果、
共通の敵としてソ連が浮かび上がり、日米の歩み寄りを生んだのです。
 
このように実際には
二発の原爆を持ってしても日本を降伏させることはできず
ソ連侵攻によってようやく
ソ連の著名しない米英中によるポツダム宣言受諾の流れになったのです。

ドイツと違う日本の降伏

一般的に日本はポツダム宣言によって無条件降伏したと言われますが、

無条件降伏は日本軍のことであって、日本国を指していません。
ポツダム宣言で天皇の扱いについては明記されませんでしたが、
これは天皇退位論や天皇戦犯論の根強い英ソ中に配慮したためで
アメリカ自身は天皇制存続には賛成でした。

これ以上日本と戦い続けるよりも天皇制ぐらい認めて
こちらの陣営に引き入れたほうが得策だと考えたのでしょう。
日本政府は国体護持変更の要求を含んでいないことを条件

日本軍の無条件降伏を含むポツダム宣言を受け入れました。
つまり、実際は国体護持という条件付き降伏だったのです。

ドイツは首都ベルリンでソ連軍と地上戦が行われ、
この最中ヒトラーは地下壕で自殺。
首都陥落後、ヒトラーの後任となったデーニッツは
政府機能をフレンスブルクに移転し、
西側を中心に降伏に向けた敗戦処理を行いますが、
既に国土の多くが連合国によって占領されている状況であり、
その影響力は限定されたものでした。
このため降伏後、連合国はフレンスブルク政府を代表政権として承認せず、
ベルリン宣言においてドイツに中央政府がないことを確認し、
1871年から続くドイツ国は名実ともに消滅することになりました。
こうしてドイツは連合国の直接軍政下に置かれ、
米英仏などの西側諸国とソ連に両面戦争を仕掛けた結果、
国土も首都も戦勝国によって分断され、
主権が回復する前に米英仏占領地の資本主義西ドイツ
ソ連占領地の共産主義東ドイツが別々に建国されることになったのです。
 
日本は沖縄で地上戦が行われたものの本土決戦前に降伏します。
国土は空襲と二発の原爆によってあらゆる都市が焼け野原になりつつ
ギリギリのところで国体を維持しました。
こうして日本は既存の制度を利用した間接統治となり、
ソ連とは直前まで中立条約を結んでおり、
日本降伏に対して影響力が小さかったため、
中国・四国地方のイギリスの例を除いて
ほぼアメリカ、西側単独の進駐となり、ドイツのような大規模分割を免れました。
戦争に負けた国は革命に近い形で君主制や政体が崩壊するのが常です。
ヴェルヘイム二世も他国に亡命し、ヒトラーもムッソリーニも死にましたが、
日本の昭和天皇だけが生き残りました。
日本が弱ければとっくに降伏して国体が崩壊していたでしょう。

第2ラウンド~外交という名の戦い~

北方領土問題においてロシアが日本のことを
「第二次世界大戦の結果を受け入れない唯一の国」と呼びましたが、
日本はドイツのように
戦争によって国全体が滅んで全てが終わったのではありません。
第二次世界大戦の結果によって日本軍は解体されましたが、
日本政府は引き続きGHQとの「外交」という名の戦いが行われました。
アメリカによって憲法が作り変えられ、
アメリカ的民主主義が広まったとはいえ、
皇室や官僚、検察をはじめとして多くの組織が生き残ったままです。
GHQは天皇の存在を「20個師団に相当する」と恐れていました。
日本本土に足を踏み入れた米軍でも
不用意に近衛兵に守られている皇居に近づくことはできず、
円滑な統治のためにGHQも天皇の扱いに対してはセンシティブにならざるを得ず、
後に田中角栄を輩出する通商産業省(現:経済産業省)を立ち上げた
白洲次郎は吉田茂首相の右腕となって
マッカーサー相手にも毅然とした態度で立ち向かい。
検察はGHQの内部抗争から不正を暴いてアメリカを揺すりました。
また米軍を国内に受け入れる事で国体にとって最も警戒すべき
ソ連・共産主義に対するけん制にもなっていたのです。
 
そもそも民主主義の下地は日本にもともとあったわけで、
戦時体制下でもナチスもどきの大政翼賛会や軍国主義的風潮があったものの
あくまで議員は選挙で選ばれていましたし、
サイパン陥落の責任を負って東条首相も辞職しています。
このように日本はアジアで唯一成功した民主的国家だったのです。
朝鮮戦争やベトナム戦争などアジアに広がる共産主義に対抗するため、
一度は公職追放によって一掃した戦前の権力者を
アメリカは再び呼び戻し再軍備を認めます。
この時、アメリカはようやく組むべき相手を間違えたことに気づいたのです。
日本政府はこうした世界情勢を利用してアメリカの手厚い復興支援を取り付け、
賠償問題や西側を中心にした国際社会への復帰などGHQとうまく交渉しました。
ドイツ第三帝国は高度に統制された独裁体制であり、
国そのものと共に一気に崩壊し、
分断された状態でスクラップアンドビルドが進んでいきましたが、
日本は騙し騙し引き延ばして緩やかに収束させていったのです。
この結果、皮肉にもドイツ同様の独裁体制である
ソ連の方が先に崩壊してしまったとも言えます。
 

日本人が「敗戦」と呼ばずに「終戦」と呼ぶのは意外と的を得た表現に思えてきます。
ドイツではヒトラーやナチスを賛美する事は犯罪ですが、
日本においてこのようなタブーがそれほど厳格でないのは
こういった終戦に至る経緯が背景にあります。

たしかに占領期から生まれた戦後民主主義の影響で、
表向きは平和国家として戦前の軍国主義を批判するものの
民族が分断され、冷戦の最前線となった東西ドイツと違い、
アジアにおいては朝鮮半島や台湾海峡が最前線となっため、
沖縄を犠牲にして国土防衛を在日米軍に委ねる事で
韓国や台湾という緩衝地帯が与えられたため
朝鮮戦争や台湾海峡危機が起きても国内の経済復興に集中でき、
強かに段階的再軍備を進めて国土回復に成功しました。
こうした経緯を考えると文明が断絶することなく継承され、
生き残り続けた日本は決して弱くない。
一方的に負けてアメリカ支配を受け入れたというよりも
日米戦争とその後の冷戦を通じて
日米連邦(同盟)が築かれたというのが実態とはいえないでしょうか?
これはいわいる従属的な親米保守の考えではありません。
ある意味においては日本にとって戦いはまだ続いているともいえるのです。
 
今再び危機にさらされる尖閣・沖縄が誇りを取り戻し、
北方領土問題に決着がつき、日本人の手によって憲法が作られることで
ようやく勝利の日が訪れるのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました