日本近代史⑨~大日本帝国の崩壊~

劣勢を強いられる日本

アメリカはミッドウェー海戦を期に攻勢に転じ、飛び石作戦を行います。
ガダルカナルを落とすと、ラバウルなど強力な日本軍要塞を避けて、
航空護衛の手薄な補給船を潜水艦で攻撃して島を無力化しつつ、
戦略的に重要な島だけを蛙が飛ぶように島伝いに占領していきます。

1944年6月、マリアナ沖海戦で日本が敗北すると
西太平洋の制海権はアメリカの手に落ち
7月、日本が絶対国防圏に位置づけたサイパン島が陥落します。
アメリカはサイパンに飛行場を建設して日本本土はB‐29の攻撃圏内に入ります。

468th Bombardment Group Boeing B-29s attacking Rangoon Burma
焼夷弾を投下するB-29

超空の要塞と言われたB-29は
木造の日本家屋を効率よく焼き払うために開発された
大量の焼夷弾を投下し、日本に火の雨を降らせます。

Firebombing of Tokyo
炎に包まれる帝都

日本の近代戦争の舞台は朝鮮や満洲などの外国でしたが、
サイパンの陥落後は、銃後の女性やお年寄り、子供が空襲の標的となり、
明治以来初めて日本列島国内の直接的被害を被ることになります。
東条内閣は責任をもって総辞職に追い込まれます。

大戦中、主要国は強力な指導者による独裁的な戦時体制を構築しましたが、
トップが政治的要因で変わったのは日本だけでした。
これは戦時下であっても民主主義が機能していた証拠です。
日本は2.26事件後、政党が解散、
ナチスドイツをモデルとした戦時体制として大政翼賛会が作られましたが、
これもあくまで議員は選挙で選ばれていました。

Taisei Yokusankai
大政翼賛会

アメリカはサイパンの次にペリリュー島を攻略し、
これを足がかりにフィリピン奪還に向かいます。
日本はもう一度アメリカに大損害を与えて好条件下で講話に持ち込もうと
南方軍の総力を挙げてレイテ沖海戦を行いますが、
不備が重なり、これにも敗北。連合艦隊は事実上壊滅
制海権と制空権はアメリカに取られ、フィリピンの再上陸を許します。
アメリカは航空機と潜水艦による通商破壊を行い
日本の南方作戦を妨害し分断させます。
アメリカはついに沖縄、硫黄島などの日本本土へと迫ります。

当初の日本軍は圧倒的火力の米軍に対して
水際作戦やバンザイ突撃などを行い
早期に玉砕する事が多かったのに対して、
ペリリューの戦い以後、島を要塞化した内陸持久戦に変更し、
硫黄島の戦いや沖縄戦では長期間、米軍を足止めさせ、
より多くの犠牲を与えることができました。

そして、レイテ沖海戦から日本は起死回生の特攻作戦を行います。
日本はこの危機を鎌倉時代の元寇にかけて神風特別攻撃隊を編成しました。
爆弾を積んだ飛行機ごと敵の艦艇に突っ込むのです。

D4Y3 Yoshinori Yamaguchi colorized
Crewmen fighting fires aboard USS Belleau Wood (CVL-24), 30 October 1944 (80-G-342020)

アメリカは西洋的価値観に真っ向から対立する
組織的な体当たり攻撃に恐怖します。
現在では道徳的側面から悲劇の面だけ取り上げられ、
自殺攻撃だの戦術的に無意味で犬死だったと言われていますが、
誘導ミサイルが一般的でなかった時代、
この未知の攻撃に対する防御手段は限られたものであり、
艦艇に対する攻撃として航空機の通常攻撃より遥かに有効性が高かったのです。
戦闘機数機で大量の戦闘機を積んだ空母や艦艇を
沈没または戦闘不能にすることができたのです。
また物的被害と同時に精神的被害を与え
ロイローゼに陥る米兵も少なくありませんでした。

沖縄戦で特攻はピークを迎え、日本は戦艦大和による海上特攻まで行います。
アメリカは沖縄作戦の中止を検討する自体にまで陥りました。

こうして日本は孤島や海原で激しく抵抗し、
時間を稼ぎながら決戦兵器を開発し、
本土決戦に向けて準備を進める一方で、講話に向けた外交も行っていました。
日本は中立国のソ連に講話の仲介を求めていました。
米英中により出されたポツダム宣言
無条件降伏としており、天皇や国体の保全が明言されていませんでした。
より日本に対して有利と思われる
ソ連の仲介に期待していたため日本は黙殺せざるを得ません。

しかし、ソ連はヤルタ会談でのアメリカとの密約で
樺太、千島の割譲という見返りによって対日参戦を決めていました。
アメリカは沖縄戦の犠牲を考慮し、
本土戦ではさらに多くの犠牲を伴うと考えていました。
そのためソ連の参戦を要請したのです。
また、アメリカは独自に原子爆弾を製造し、
1945年8月6日に広島に投下します。
日本はこの時点では継戦しますが、わずか3日後に長崎二発目が投下されます。
同じ日に突如としてソ連軍が満州に侵入します。

Atomic bombing of Japan
アメリカ軍による原爆投下(左・広島、右・長崎)
Soviet troops crossing Sungari on Amur Flotilla Monitor Sungari Offensive
満州の松花江で進軍を続けるソ連軍

ポツダム宣言受諾の流れを決めたのは
アメリカの原爆よりもソ連参戦のほうが大きかったと自分は思います。
フィリピンを獲得したアメリカの通商破壊によって多くの補給船が
台湾~フィリピン間を走るバジー海峡で沈没、
南方資源の供給が困難になりつつも
中立条約によって安全が担保されている満州の資源供給は可能で、
中国戦線にはまだ多くの残存兵力がありました。
しかし、ソ連軍の一方的侵攻により、
いよいよ戦争継続は絶望的になり、仲介の望みも絶たれました。

日本は最後まで本土決戦かポツダム宣言を受け入れるかで
意見が一致しませんでしたが、
天皇陛下のご聖断によりポツダム宣言を受諾することを決めました。

8月15日玉音放送が流され、日本軍は武装解除を始めます。
しかし、ソ連は交戦を続け一気に北海道まで支配地域を広げようと企みます。
戦車第11連隊、通称士魂部隊が再び武装し
千島の北端に位置する占守島に上陸したソ連軍に応戦、
ソ連の一方的攻撃は降伏文書が著名された9月2日を過ぎても続き、
北海道に米軍が入り、北海道入りを断念したソ連が
北方四島を完全占領した9月5日にようやく終わります。

明治以降不敗を誇った日本はついに破れ、
大日本帝国はここで一旦崩壊します。
しかし、首都ベルリンが陥落し軍政による直接統治を受けたドイツとは違い
日本は結果的に本土戦を行わず、
敗戦時においても多くの領土や国会などの機能が健在であったため
GHQは天皇制や既存の政治機能を利用した間接統治を敷きました。
事実上、日本文明は引き継がれ、国家としての体裁は守られました。

外地を手放すことになったとしても結果的に国体維持に成功し、
戦後賠償に関しても日本に対してかなり配慮した形となりました。
これは冷戦という戦後の世界構造の中における
日本の外交努力の結果でもありますが、
何より、日本が戦中に見せた意地がそうさせたのでした。
日本が勇敢に戦わなければもっと早くに本土が蹂躙されたかもしれませんし、
国体維持も不可能だったかもしれません。
日本を救ったのは間違いなく特攻隊であり、士魂部隊であり、
当時の若者の勇気でした。

72nd Shinbu 1945 Kamikaze
特攻隊員の多くは10代~20代の若者だった
Japan Ground Self-Defense Force; June 2018 (8839439370)
北海道の陸自第11戦車大隊に受け継がれる士魂部隊(出典:MIKI Yoshihito)

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