日本近代史②~アヘン戦争と明治維新~

キリスト教を受け入れたアジアの国々は
ことごとくヨーロッパの植民地支配にあえいだ中、
日本は鎖国政策を取りキリスト教を禁じ外国の影響を受けない事で侵略を防ぎ、
江戸時代の250年間もの間、対外戦争も内戦も経験しない
世界史上奇跡とも言える平和な期間を謳歌し、
元禄文化などが花開きました。

18世紀末になると日本周辺にも外国船が頻繁に目撃されるようになります。
露英仏米などから通商を求められましたがすべて断り、
日本との通商権はオランダ一国が独占していました。
しかし長崎で起きたナポレオン戦争の英蘭対立であるフェートン号事件
千島で起きたロシアとの紛争ゴローニン事件など
日本は徐々に海外の紛争に巻き込まれることになります。

今までは海に囲まれているという自然の防壁
日本列島は中国や西洋諸国の侵略を受けることなく独立を守りましたが、
19世紀産業革命による蒸気機関を使用した蒸気船などの技術革新は
必然的に日本を争いの渦に巻き込むことになりました。
日本は異国船打払令攘夷を開始します。

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アヘン戦争の衝撃

そして、お隣の中国で1840年アヘン戦争が起こります。
原因はイギリス、インド、清の三角貿易です。
イギリスは清から茶、陶磁器、絹を大量に輸入しましたが、
イギリスは時計、望遠鏡などの富裕層向けの商品ばかりで大量に輸出する商品がありません。
対清貿易赤字を改善するため、植民地のインドにアヘンを作らせて清に売りましたが、
アヘン吸引による健康被害は深刻で、清はアヘンを禁輸取り締まりを強化、
これに反発したイギリスが清を攻撃しました。当時から見ても愚かな開戦理由でした。

Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843)
「Destroying Chinese war junks」エドワード・ダンカン(1843)
イギリスの蒸気船の砲撃を受ける清の帆船(ジャンク船)
科学文明の差を見せつけられる象徴的なシーン

中国は夷狄の一つに過ぎないイギリスに負け南京条約により香港を奪われます。
それを見てポルトガルも居留地に過ぎなかったマカオを植民地にします。
ロシアもアイグン条約で清の領土を奪います。

列強からも眠れる獅子と恐れられ一目置かれていた中国が破れ、
イギリスに続き列強も次々とハイエナのように中国侵略を始めました。
日本は中国の敗北に衝撃を受けます。

近代以前、東洋では中華思想が支配的でした。
中国皇帝を世界の中心として、皇帝の支配地を中華、支配の及ばない化外の地を夷狄と呼び
夷狄は四夷とも呼ばれ、東西南北に東夷・西戎・南蛮・北狄と言い異民族を蔑みました。
日本もそれに倣い南の海からからやってきたポルトガルなどの
ヨーロッパ人を南蛮人と呼びました。
現在の中国の国名の由来、外国人を討つ「攘夷」という言葉も中華思想が元です。

「皇帝」朝貢する事でその地の支配が認められ
「王」の称号が与えられるという冊封体制があり、
政治的にも経済的にも朝貢以上の対価が得られるので進んで朝貢する国があり、
19世紀末、清朝には李氏朝鮮、阮朝越南(ベトナム)、琉球王国が冊封を受けていました。

清朝はインドと日本を除くアジアの大部分を冊封に組み込んだが、
近代に入り欧米列強に次々と朝貢国を奪われた。

古代、日本も卑弥呼などが冊封を受け金印を授かりましたが、
遣隋使の「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す」に始まる国書を代表するように
飛鳥時代には中国と対等の国を標榜し、中国の冊封に入る事を避けました。
皇帝煬帝は無礼と憤慨しましたが、海を隔てた日本に直接深く関わる事もなく放置します。
遣唐使廃止以降は皇帝に対して「天皇号」を使用し、
日本はかなり早い段階から冊封を抜け出しました。
しかし政治体制の確立と言う部分でも文化的にも依然中国の影響力は大きかった。

遣唐使廃止以降は国風文化と呼ばれる日本独自の文化が発達しますが
飛鳥時代や奈良時代には命がけで海を渡り遣隋使、遣唐使が行われ
長安をモデルケースにして平城京、平安京が作られるなど隋朝、唐朝文明を継承しました。

そんな大国が肌の白い異民族に敗れた。
清にとっては一地方の戦いに敗れたにすぎませんでしたが、日本の衝撃は清以上でした。
日本は異国船打払令を止め薪水給与令を出して
遭難船に限り、飲料水や燃料を与えて穏便に出国させる方針に転換します。

黒船来航と不平等条約

しかし1853年にアメリカの国書を携えたペリー率いる黒船艦隊が来航。
日本国内は大混乱に陥ります。
アメリカは圧倒的武力を背景に開国を要求。
1854年、日本はついに開国します。約200年に渡る鎖国が終わりを告げました。
その後、他の列強とも相次いで不平等な条約を結ばされます。
植民地化の不安は現実のものとなっていきます。

平和だった日本は開国により外国人犯罪が急増、
しかも領事裁判権を認めていたので
外国人が日本で犯罪を犯しても日本人は処罰できませんでした。
攘夷運動は頂点に達します。
尊王攘夷を掲げて「下関戦争」「薩英戦争」で列強と戦火を交えた
長州藩、薩摩藩は優れた西洋文明を受け入れ始めようとします。
アヘン戦争やペリー来航を見て分かる通り、
島国という条件は国防上の優位性を失います
ペリー来航以降、大船建造の禁が解かれ幕府、新政府問わず日本でも蒸気船が作られます。

富国強兵

戊辰戦争で勝利した薩長は討幕に成功し、
1868年ついに明治維新を行います。
アヘン戦争から28年、ペリー来航からわずか15年
恐るべき速さで日本は近代化への道を進みます。当時の日本の緊迫した状況が伺えます。
日本が中国の配下となることなく独立を保ったように
西洋諸国とも対等であろうとしました。
中華文明からの離脱と西洋文明を受け入れるという日本の決断に
以前のアジア秩序(中華思想)を保とうとする清や朝鮮は愚かなことだと蔑みます。

明治新政府は富国強兵をスローガンに掲げます。
特に島国として海軍力向上は必至でした。
そして武器だけではなく政治や社会、文化、芸術に至るまで
様々な分野でお雇い外国人を呼んで改革に取り掛かります。
日本は国家として西洋化する事で不平等条約改正を目指しました。

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