インパール作戦の真実。

昨日8月15日は終戦の日ということでテレビも戦争特集だらけでしたが、
NHKでは「戦慄の記録インパール」が放送されました。
インパール作戦は大東亜戦争で日本が劣勢を強いられていた1944年に
インド北東部の町インパール攻略を目的として行われましたが、
補給線を無視し、多くの餓死者を出し、歴史的大敗北をしたという事で
戦中の多くの作戦の中でも
「無謀な戦いの代名詞」として不名誉の扱いを受けています。

インパール以上に悲惨な戦いもあるにも関わらず
戦後におけるインパールの扱いは年々酷くなっているような感を覚えます。
特に多くの参謀が作戦に反対していたにも関わらず、
賛成して作戦の指揮を執った牟田口司令官の評判はとても悪い。
戦後も生き残り、晩年は責任を部下に押し付けて弁明を図った事も一因です。

Mutaguchi Renya
牟田口廉也

今回の放送でもこの敗北の責任者の追求という方向で、
元兵士が悲惨な前線の様子を証言する一方で、
日本陸軍上層部、大本営を槍玉に挙げており、
これを終戦の日に放送するのですから
NHKは「戦争になったら無能なトップに振り回され悲劇を迎えるぞ」
と訴えているのです。
一方で敗北を決定づけた佐藤中将指揮下にある1万人の独断撤退は、
1万人の命を救った英断だと称されています。

しかし、これはインパール作戦の一つの側面に過ぎません。
インパール作戦には日本陸軍だけでなく
6千人のインド国民軍も参加していました。
もともとインパール作戦は大東亜会議に出席した
インドの独立運動家チャンドラ・ボーズが強く熱望していたものでした。

Subhas Chandra Bose NRB
チャンドラ・ボーズ

国外に拠点を移していたボーズ以下自由インド仮政府は
祖国独立のため当時イギリス領であったインド領内の進軍に拘ったのです。
インド国民軍を迎えたインド国民は歓喜して祖国独立に協力するでしょう。
東条英機首相はこの熱意に押され、
日本にとっても新たな援蒋ルートの遮断に繋がるとして決行されました。
インドは日本の提唱する大東亜共栄圏には含まれていませんでしたが、
天竺を目指す事は日本人にとっても大きな意味性を持っていました。

19430610 meeting bose tojo
東条英機首相と会談を行うボーズ(1943年)

敵側だったイギリス軍スタッフォード将軍の証言によれば
佐藤中将がこの時撤退せず、
進軍を続ければ日本は勝っていたとも言われていますが、
結論から言えば日本がこれから守りに入るという段階で
最初から望み薄な戦いだったのです。
しかしながらこの作戦は行われた。
その背景はインド独立でしかありえないのです。
当初日本軍に疑問を持っていたマハトマ・ガンジー
日本軍がインド領内に近づくにつれて
日本寄りの発言を繰り返すようになります。

また当時のイギリス軍15万に対して日本軍9万、
インド国民軍4万5千人を加えるとほぼ拮抗する勢力でしたが、
インド国民軍は6千人のみが参加し、大半の勢力を温存しました。
このような事はインドだけではなく、
パラオでもペリリュー島の戦いの際に
日本軍と一緒に戦うことを希望した現地人を
他の島に避難させた上で玉砕を迎え、島民の被害者はゼロでした。
結局独立を勝ち取り、国を支えるのは外国人である日本軍ではなく、
現地人でなければなりません。

戦後、イギリスは日本軍に協力した元インド国民軍の兵士たちを
イギリス国王への反逆罪として裁判にかけましたが、
これにインド国民が大反発、暴動に発展し独立を勝ち取る転機となりました。

このように日本軍は祖国の破滅というリスクを負ってまで
他国のために働きました。
インパール作戦は日本の戦争の性格が自国優先主義的な侵略ではなく、
植民地解放だった最大の証左でしたが、
インパール作戦立案に大きな影響を与えた
チャンドラ・ボーズとインド国民軍は放送では完全にスルーされ、
完全に日本軍単独で行われたかのような編集内容でした。
むしろこの植民地解放戦争の決定的な証拠を消したいがために
必要以上に無謀な作戦、無駄死に、無意味性を強調させているように感じます。

日本ではインド独立というと
ガンジーの非暴力運動ばかりが挙げられますが、
インドではチャンドラ・ボースの位置づけは
ガンジーと同等で、ネルーより上位。
国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっています。
「インド独立は非暴力運動ではなく、
ボーズと日本軍によるインパール作戦によってもたらされた」
という歴史家もいます。
東亜解放に散った兵士を
可哀想な戦争の被害者とするのは英霊への最大の侮辱でしょう。
これは戦争美化でもなんでもない歴史の事実なのです。

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