日本古代史⑤~シルクロードの終点~

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奈良時代

奈良時代は、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、
794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間、
奈良に都が置かれた時代です。

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平城京の朱雀門(出典:KENPEI)

既に天武天皇によって683年頃から計画が進められ、
皇后の持統天皇在位中の704年(慶雲元年)に完成した藤原京がありますが、
藤原京完成の4年後の708年(和銅元年)には元明天皇より遷都の勅が下り、
6年後の710年(和銅3年)に平城京に遷都されました。
なぜ早々と飛鳥から奈良に遷都したのでしょうか?

主な遷都理由として、
藤原京が白村江の戦いなど唐との交流が途絶えた時期に作られたこともあって、
モデルとしていた唐の長安との差は歴然としたのもがあった事。
また南から北にかけて傾斜している立地のため、
北にある皇居を南の臣下が見下ろすという問題、
また現実的な問題として排水問題が挙げられます。
奈良が選ばれた理由は
藤原京から近く、短期間で移築が可能だったことに加え、
三方を山に囲まれた四神相応の地であり、
風水的に理想な土地と考えられたことです。
唐から輸入された風水思想はその後日本で独自に進化して陰陽道が生まれます。

しかし、やはりここにも藤原氏の影が見えます。
藤原京で生涯を過ごした文武天皇は藤原不比等の娘宮子と結婚し、
後の聖武天皇である首皇子が誕生しますが、
文武天皇が崩御した時まだ7歳と幼かったため
文武天皇の母である元明天皇(女帝)が中継ぎとして即位します。
この元明天皇をバックアップして
平城京遷都に大きな役割を担ったのが藤原不比等です。
元明天皇在位中には我が国最古の貨幣和同開珎が鋳造され、
天武天皇の時代から編纂が行われていた古事記が完成します。

平城京に遷都した元明天皇は老いを理由に退位をしますが、
病弱であったこと、また皇親勢力と外戚である藤原氏との対立の影響もあり、
藤原氏の血を継ぐ首皇子の即位は再び延期となり、
娘であり、文武天皇の姉であった氷高皇女が
元正天皇として即位することになります。
これは歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承であり、
また元正天皇は皇后を経ずに独身で女帝となり生涯結婚しませんでした。
これを持って女系天皇であると言われることがありますが、
元正天皇の父は天武天皇の子である草壁皇子であるため
正しくは男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承であり、
これもあくまで中継ぎです。
元正天皇の在位中には飛鳥時代の大宝律令を
国内事情に合わせて改正した養老律令が作られ、
日本書紀が完成しますが、これらを主導したのも藤原不比等でした。

藤原不比等といえば前回書いたとおり、
未亡人である持統天皇と協力して
天武天皇の孫である幼い文武天皇を即位させました。
そして今度も未亡人である元明天皇と非常に近い関係にありました。
不比等が実務に長けていたのは間違いないですが、
天武天皇の崩御後、天武天皇の築いた皇親政治からの離脱を意図し、
自分の子女を天皇と政略結婚させたり、
女帝を利用して自ら朝廷の実権を握ろうとしていました。
自らの権威付けのために天武天皇の影響の強い藤原京から
自らが支配する都を新たに必要としたのではないでしょうか?

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聖武天皇像(鎌倉時代)

ようやく聖武天皇が即位した時には
不比等が死に、代わりに右大臣となった長屋王が政権を握ることになります。
父は天武天皇の長男の高市皇子、
母は天智天皇の皇女の御名部皇女と正統に近い存在でしたが、
聖武天皇が母である藤原宮子を尊んで
「大夫人」と称する旨の勅を発すと長屋王は反発します。
当時、朝廷内部には
母が皇族でない聖武天皇は天皇として相応しくないという意見もあり、
皇親派の長屋王と藤原不比等の子、藤原四兄弟
これを期に対立していくようになります。
政略により長屋王は自殺に追い込まれ、藤原四兄弟が政権を奪い
妹の光明子を聖武天皇に嫁がせ、臣下で最初の皇后とすることに成功します。
こうして藤原一族は皇室の権威を我がものにしますが、
その後、藤原四兄弟が相次いで天然痘によって死亡。
これは自殺に追い込まれた長屋王の呪いであると恐れられました。

その後、朝廷内に再び反藤原勢力が台頭し、
橘諸兄が遣唐使の経験もある
僧侶玄昉をブレーンとして聖武天皇を補佐しますが、
藤原四兄弟、三男藤原宇合(藤原式家)の長子藤原広嗣はこれを良しとせず、
藤原政権再興を目指して九州の大宰府で挙兵しました。
乱は鎮圧され、藤原式家は平安時代に入るまで表舞台に現れなくなります。

この反乱は聖武天皇を恐れさせ、
平城京を留守にして遷都を繰り返すことになります。
これは平城京の民衆の不安を煽りました。
聖武天皇在位中には藤原広嗣の反乱のみならず、
大規模な疫病相次ぐ地震により、社会不安が蔓延していました。
かねてから仏教に傾倒していた聖武天皇はこの状況を収めるため、
仏教の力を持って国家安泰をもたらす鎮護国家を目指して
全国に国分寺の建立を命じ、その総本山として平城京に東大寺が建てられました。

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東大寺金堂(出典:Wiiii)



「奈良の大仏」として現在でも有名な
東大寺大仏が752年(天平勝宝4年)に完成しますが、
聖武天皇は大仏の完成を待つことなく娘に譲位し、出家してしまいます。
聖武天皇は藤原氏の血を継ぐ跡取りとして幼い頃から期待されたものの、
朝廷内での争いによって即位が遅れ、
いざ即位すると反乱や災害など不運に見舞われ、
天皇という職務の重圧に耐えきれなかったのかもしれません。
皇子も早くに亡くし光明皇后との間には跡取りができなかったため、
阿倍内親王を女性で唯一の皇太子としますが、その場しのぎの対策であり、
阿倍内親王が孝謙天皇として即位してからも
称徳天皇として崩御するまで皇位継承問題は継続しました

東大寺大仏完成時には新たに即位した孝謙天皇、
そして太上天皇となった先代の聖武天皇臨席のもと、
盛大な開眼供養がおこなわれました。
開眼導師としてインド出身の僧菩提僊那が招かれ、
唐や新羅、ベトナムなど外国の舞も奉納されるなど
現在のオリンピック万博のような国際的一大イベントでした。

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奈良の大仏(出典:Mass Ave 975)

大仏完成の二年後には唐からも鑑真が来日するなど、
奈良時代は唐や新羅とも交流が盛んで国際色豊かな時代でもありました。
東大寺大仏殿の北北西に位置する正倉院には
日本製のみならず中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品を含めた
絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面
などが保管されており、
奈良はシルクロードの東の終点として、
当時から国際的な都市であったことが伺えます。

皇位継承問題において継承順位も決して高くなく注目もされていなかった
天武天皇の皇子・舎人親王の七男であった大炊王が淳仁天皇として即位します。
推薦したのは不比等の長男藤原武智麻呂(藤原南家)の次男藤原仲麻呂であり、
実質、淳仁天皇は仲麻呂の傀儡でした。
一方退位した孝謙上皇は僧侶であった道鏡を寵愛し、政治に参加させましたが、
これを快く思わない仲麻呂は淳仁天皇を通して意見したため
孝謙上皇と淳仁天皇の対立が浮き彫りとなりました。

孝謙上皇は天武系の傍流の淳仁天皇を臣下と見なし、
淳仁天皇は自らを孝謙天皇の皇太子ではなく、
聖武天皇の皇太子であると考えていました。
血筋の離れた二大権力の発生によって
皇室における上下関係の認識のズレが生じたのです。
藤原仲麻呂は武力によって政権を奪還しようと
藤原広嗣と同じように反乱を起こしますが、これに失敗し、
仲麻呂と近かった淳仁天皇は廃位されて淡路島へ流罪となりました。
廃位された天皇は二名だけなので非常に稀なケースです。

孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりますが、
結局、独身の女帝では後継者はなく
相次ぐ反乱と粛清のため、天武天皇直系の男系男子も不在となってしまいました。
孝謙上皇(称徳天皇)の右腕だった道鏡は法王となり、
天皇になる野望を持ち始めます。
大宰府の主神であった中臣習宜阿曾麻呂
宇佐八幡宮の神託であるとして、
「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」と称徳天皇に奏上しますが、
和気清麻呂がこれを阻止したことで、道鏡は失脚、
一先ず皇統の断絶は阻止されました。

称徳天皇崩御後、妃が聖武天皇の第1皇女であり
その子である他戸親王が女系ではありますが、天武の血を継ぐ男子となるため
天智系でありながら白壁王が光仁天皇として即位することになります。
こうして称徳天皇は争い続きだった天武系最後の天皇となり、
女帝も称徳天皇以降、江戸時代初期に即位する第109代明正天皇まで、
850余年立てられることはありませんでした。


古代は何かと朝廷内でドロドロというイメージがありますが、
今回の藤原不比等にしても天皇を倒して自らその地位に上がることはせず、
娘を天皇妃とする事で天皇家と融合する道を選びました。
天皇を暗殺した蘇我馬子でも皇位には付かず
欽明天皇の子で蘇我氏の血を継ぐ推古天皇を即位させています。
その後の皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇・・・と
相次ぐ女帝の期間は蘇我氏や藤原氏などが権威を振るった所もありますが
その支配は長く続かず、結局皇位は男系男子で継承されています。

元々の大和朝廷は地方の豪族の寄せ集めであると言われていますが
天皇家の男系男子継承
国家として統一するための条件であり、
分裂を回避するための古代人の知恵だったのかもしれません。
そういう意味でも天皇の存在は
和の精神そのものを体現していると言えるのではないでしょうか?
女系天皇容認論がいかに危ういかはこうした歴史を見れば見えてきます。

そして奈良時代は仏教の力が相当強かったという事が
聖武天皇の政策や玄昉、道鏡という僧侶の政治参画で分かります。
これは天皇中心に進めてきた律令体制の揺らぎであり、
桓武天皇による平安京遷都の動機、つまり平安時代へと続いていくのです。

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