日露関係の歴史②ロシア革命~ノモンハン事件。

ロシアは日本と同じ連合国の一員として第一次世界大戦に参加しますが、
その最中の1917年にロシア革命が起こり、ロシア内戦が始まりました。
内戦に集中するためロシアは一方的にドイツと講和します。

「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により
連合国は1918年から1922年にかけてシベリア出兵を行いましたが、
その実態は革命干渉戦争でした。

4 U.S. Wolfhounds on parade in Vladavostock, August 1918.jpg
ウラジオストックでパレードを行う干渉軍
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連合軍の中でも地理的にシベリアに近く
欧州に比べ余力があった日本軍は最大の勢力でした。
当初、日本はシベリア出兵に前向きではなく
他の連合国の要請によってアメリカと共同出兵という形で参戦します。
国内でも目的の不明確な戦争であるとして批判され、
士気も低かったと言われています。

しかし、尼港事件によって
日本住民が共産パルチザンに虐殺されると国内でも主戦派が増えていきます。
日本は北樺太を制圧してロシア革命が落ち着くまでの保証占領としました。
日本は白系ロシア人を擁護してシベリア地域に非共産圏を作ることを画策し、
アメリカが撤退した後も
シベリアに居座ったため国際的に批判され、後に撤退します。

共産主義のソ連の誕生は日本にとって大きな問題でした。
イデオロギー的に皇室を中心とする日本と相容れないし、
ポーツマス条約でようやく手に入れた
日露の平和的関係を反古にされる恐れがあったからです。

世界大戦後、国際連盟が作られ平和共存に舵を切りますが、
日本にとって最大の懸念は隣国のソ連の存在でした。
ソ連は連盟に加盟せず、軍縮会議にも参加していません。
共産主義の波はアジアにも迫り、
それは日本海を越え国内でもコミンテルンの指示のもと
日本共産党が結成され、共産ゲリラが暗躍し始めました。

戦間期の日本はアメリカよりソ連を仮想敵としており、
朝鮮併合や満州国建国など大陸へと介入していく要因になります。
こうした政策を北進論と呼びます。

Border Security of the 50th parallel of north
樺太の国境を警備する日本兵

やがて日ソの領土問題は島ではなく、互の衛星国のある大陸に移ります。
日本の満州国ソ連のモンゴル日ソ勢力の境界となりました。
満蒙国境では断続的に紛争が起こり、
その中で最大規模だったのが1939年に起きたノモンハン事件です。
形式的には満州国とモンゴルの国境紛争であり
日ソ両国もこれを局地戦とみなし全面戦争とはなりませんでした。

Japanese light tanks moving forward the front of the Khalkha River
ハルハ川の前線へ向かう日本軍軽戦車

そして1941年日ソ中立条約が結ばれ
満州国とモンゴルは互いに国家承認され、満蒙の領土保全が約束されました。
当時、日本はアメリカと対立状態にあり、
ソ連もドイツによる侵攻のおそれがありました。
両国とも二面戦争を避ける狙いがありました。

この段階で日本はソ連とも安定的な関係を結ぶことになります。
ノモンハン事件によりソ連の実力を見た日本は
北進論の政策を転換し、南進論へと進み
対米英戦争に繋がっていくのです。

Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-1
日ソ中立条約に著名する松岡外相

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