日露関係の歴史③第二次世界大戦~ソ連崩壊。

1941年日ソ中立条約は日本にとって対ソ国境の領土保全だけでなく
国力の勝るアメリカに対して
日独伊の三国同盟にソ連を加えたユーラシア同盟とも言われる
四国協商を形成し、圧力に抵抗しようとしたものでした。
1939年にドイツとソ連も独ソ不可侵条約を結んでいたので
現実味のある手段でしたが、
第二次世界大戦でドイツが突如ソ連に侵攻したため
計画は破綻し、その後日本も米英に宣戦したため
互いに中立の立場でありながら別の陣営で戦うことになります。

そして第二次大戦末期、日本の敗戦が濃厚になると
満蒙国境で小規模な紛争が起こるようになります。
日本は東南アジアに兵力を割いていたので
なるべくソ連を刺激しないようにしていましたが、
ドイツに勝利したソ連はシベリア鉄道で兵力を極東に移動させます。
1945年の8月9日、
ソ連は一方的に条約を破棄して満州、南樺太、千島に侵攻してきました。
これはヤルタ会談での密約により
米ソの間でソ連対日参戦と戦後の南樺太、千島のソ連領有に合意したからです。
しかし、これは日本が了解しているものではないので法的根拠はありません。

Soviet troops crossing Sungari on Amur Flotilla Monitor Sungari Offensive
松花江で日本軍に対する進軍を続けるソ連軍

日本は米英中で出されたポツダム宣言を受諾し、降伏します。
日本軍は玉音放送の8月15日に武装解除し、
組織的な戦闘を中止しますが、
ソ連は一方的攻撃を続けたため、日本も武力抵抗を余儀なくされます。
戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印の9月2日を過ぎても
ソ連軍の一方的攻撃は収まらず、
北方四島を完全占領した9月5日にようやく終わりました。
スターリンは軍事侵攻によって
占領を既成事実化することで北海道侵略まで意図していましたが、
北海道本島を目前にしてアメリカ軍が北海道入りをしたため諦めます。

その後、1951年サンフランシスコ講和条約
日本と西側諸国の戦争状態が終わります。
ここで、日本は南樺太と千島列島の領有権を放棄するのですが
ソ連は会議には参加しましたが署名しませんでした。
1956年日ソ共同宣言
ようやくソ連との戦争状態の終結と国交正常化が行われ、
日本は国際連合加盟が認められます。
しかし、北方領土の帰属については棚上げされたため、
平和条約は結ばれませんでした。
このため日本では領有を放棄した南樺太、ウルップ島以北の千島列島について
現在でも所属未定地としています。

日ソ共同宣言では平和条約締結後に歯舞、色丹の二島を返還するという前提で
交渉が続けられる事が約束されていました。
ところが次第に両国の認識の違いが現れ始めます。

日本は歯舞、色丹は返還が決まったが、
択捉、国後も継続して交渉していくという認識でしたが、
ソ連は北方四島含め、千島列島は戦争の結果手に入れた領土であり
歯舞、色丹も返還ではなく、
平和条約締結後に善意として引き渡すという認識であり、
さらなる譲歩はしないとしました。
択捉島以南は古来より日本の領土であるため、
北方四島はロシアの不法占拠とし
北方四島全島の返還を要求する日本の立場と相いれません。

またアメリカは
「国後、択捉をソ連にやるなら沖縄を返さない」と日本に圧力を加えたため
二島返還で決まりかけていた日本の態度が硬化したという経緯があります。
ソ連も歯舞・色丹の返還について
日本領土からの全外国軍隊の撤退という
新たな条件を課すことを一方的に声明します。
1960年日米安全保障条約の改正により
ソ連は領土問題の解決交渉を打ち切り、
領土問題は日本側の捏造でしかなく、当初から領土問題が存在しないと表明、
これに対し日本も北方領土問題が解決しない限り、
何もしないとして北方領土交渉は停滞してしまうのです。
冷戦の影響に北方領土問題は翻弄されます。

冷戦末期になり、ソ連が経済的に停滞し始めると
経済発展を遂げた日本の経済力を頼りにし始めます。
フルシチョフはサンフランシスコで講和しなかったことを後悔し、
ソ連最後のゴルバチョフ書記長
シベリア開発と引き換えに北方四島返還に前向きな姿勢になります。
しかし、交渉の途上でソ連が崩壊してしまいます。

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