日露関係の歴史①日露和親条約~日露戦争。

今年の下半期、話題になること間違いなしの
日露関係についておさらいしたいと思います。

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ロシア連邦世界最大の面積を持つ国家であり、
国連常任理事国の一つでNPTで核保有を認められている大国です。

第一次世界大戦の最中、
世界で最初に共産主義革命(ロシア革命)を起こし、
第二次世界大戦の熾烈な独ソ戦に勝利すると
東ヨーロッパやアジア、キューバなど世界各地を共産化し、
東の共産圏の盟主として西の資本主義の盟主アメリカと東西冷戦を戦いました。
この関係はソ連崩壊で軟化しましたが、
核兵器や軍事技術などその多くのロシア連邦は継承しているので
基本的にアメリカや日本をはじめとする西側諸国とは敵対する関係にあります。

ロシアといえば南下政策やシベリア鉄道からソ連の拡大、
現在世界的問題になっているクリミア併合やウクライナ内戦の介入まで
何かと膨張傾向があります。
ロシア帝国の最大版図は現在のアメリカのアラスカ州にまで伸びていたので
異常な気もします・・・(;^ω^)
(後にアメリカに売却されました)
これは中国と同様、地政学的に言うランドパワーの宿命とも言えますが
直接的に言えばモンゴル帝国の恐怖が伝統的に受け継がれているのです。
ロシア人はモンゴル帝国崩壊後、広いシベリアを植民地としていきます。

日本とロシアは日本海、オホーツク海を挟んだ
国境を接する隣国で歴史の早い段階から交流がありました。
日露問題の懸案である北方領土ですが、
江戸時代、幕府の命を受けた間宮林蔵の探検によって
樺太が島であることが確認され、
樺太と対岸の沿海州の間は日本では間宮海峡と呼ばれるように
もともと樺太、千島列島は日本人やロシア人、アイヌ人雑居の地でした。

Mamiya rinzo.jpg
日本最北端の宗谷岬に立つ間宮林蔵の像。
(出典:Gomurafuji)

1855年、江戸幕府とロシア帝国によって日露和親条約が結ばれ、
千島列島のウルップ島と択捉島の間に国境が引かれ、
樺太は一旦棚上げされ一先ず雑居地となりました。
この段階では択捉以南は日本であり、
樺太にも日本人の利権が認められていたのです。

1861年、ロシア軍が対馬に上陸し半年ほど占領する事件が起こります。
(イギリスの介入によって撤退)
明治維新を経た日本は近代国家として国境線を確定する必要がありました。
1875年千島・樺太交換条約が結ばれ、
日本は樺太を手放す代わりにロシア領だった
ウルップ島から最北端のシュムシュ島まで千島列島全域が日本領となりました。
近代国家日本の北の国境はこれで確定したのですが
ロシアは不凍港を求め南下を始めます。
ロシアは冬になると主要な港が凍るので経済的にも不利でした。

1858年のアイグン条約と1860年の北京条約で
ロシアは清から沿海州を手に入れます。
日本海の対岸にはウラジオストク(東方を支配する町の意)を建設し、
極東の領土的野心を見せました。

日清戦争の結果、日本は遼東半島を手に入れますが、
ロシアはドイツとフランスを誘って清に返すよう迫ります。(三国干渉)
日本はアメリカとイギリスを誘って抵抗を試みますが、
協力を得られず国力の差からそれを飲みます。
しかし、その遼東半島にロシアが進出し、実際に不凍港である旅順港を築いたため
日本をさらに刺激して日露戦争が勃発します。

MIKASAPAINTING
東城鉦太郎「三笠艦橋之圖」(1907)

日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約によって南樺太を領有します。
樺太が再び日本に戻ってきたのです。
国内では既に占領していた北樺太も含めて領有すべきだいう意見があり、
多大な犠牲に引き換え、賠償金も得られなかったため
国内では講和内容に不満が続出し日比谷焼き討ち事件が起こります。
実際には日本も継戦が困難な状況でありギリギリの交渉で得た勝利でした。

日露戦争の敗戦で極東地域の南下を諦めたロシアはヨーロッパに目を向け、
これがドイツやトルコとの衝突となり、第一次世界大戦に繋がります。
ポーツマス条約にて日露の外交問題は一応の解決を見たのです。

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