台湾問題。

2015 Ma–Xi Meeting 08
(出典:政府網站資料開放宣告)

11月7日、シンガポールで中台首脳会談が行われました。
先日、韓国ソウルで行われた日中韓首脳会談は実に三年半ぶりの事でしたが
中台首脳会談は史上初めてのことでした。
ここで一度中国と台湾の関係を整理したいと思います。

Flag of the Republic of China
Flag of the People's Republic of China

そもそも中国と台湾の間には台湾問題があります。
台湾問題とは中国大陸と台湾島の両岸での紛争ですが
全ての始まりは国共内戦です。歴史を振り返ります。

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国共内戦の歴史

辛亥革命

1911年、漢民族の孫文辛亥革命により
満州族の清朝が倒されて
アジア初の共和国として「中華民国」が誕生しました。
中華民国の船出は当初から非常に怪しいものでした。
孫文は南北分裂状態だった大陸を収めるために
清朝時代の重鎮で圧倒的軍事力を誇った袁世凱と協力し
憲法の遵守などの条件と引き換えに皇帝溥儀の退位後、
初代大統領の地位を袁世凱に譲りました。

孫中山先生
YuanShikaiPresidente1915
孫文と袁世凱

しかし袁世凱は強権的な専制政治を行い、国内は混乱。
自身の権力を固めるために日本と協力し
世論を無視して対華21ヶ条要求を呑み、
自らが皇帝となることを前提に
帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改めます。
国内外から反発を招いたまま袁世凱は求心力を失い1916年に死去。

ちなみに台湾島1895年から日本領となっており、
原住民が台湾民主国の建国を宣言し、日本支配に抵抗したり、
辛亥革命の影響を受けて抗日運動も行われましたが、
間もなく全土が平定されることになります。

国共内戦と国共合作

袁世凱の死後、国会は復活し共和制に戻りますが
統一政府がない状態となったため
地方軍閥や匪賊が跋扈し複数政府状態へと中国大陸は内乱状態に陥ります。
孫文は改めて統一政権を樹立するため中国国民党を結成しますが、
ソ連コミンテルンの影響下から中国共産党も誕生します。
反共の国民党は共産党と中国統一を目指して争います。
国共内戦の始まりです。
それに中国東北部に利権を持つ日本も巻き込まれていきます。

蒋介石の国民党はまず地方軍閥を倒すため共産党と一時休戦し、
第一次国共合作を行います。
そして、北伐の成功により北洋軍閥が敗れたため
北京に入った蒋介石国民党により大陸は表面上統一されましたが、
実際には党内対立が激しく内紛が長引きました。
こうした中国情勢により日本は大陸の利権を守るために
清朝皇帝溥儀を立てて「満州国」を建国します。
(当時、満州は中国とは違うという国際認識がありました)

北伐後、再び国共内戦が起こります。
戦いは激しさを増し共産党は劣勢に立たされます。
江西省から西部奥地ソ連国境に近い延安への逃避行(長征)をするなど
共産党は壊滅寸前の危機に陥ります。

共産党は大陸に進出する日本軍を利用し再び国民党に協力を呼びかけます。
国民党は強力な日本軍との正面対立よりも共産党討伐を優先していましたが
1937年7月7日の盧溝橋事件など相次ぐ日本軍との武力衝突によって
第二次国共合作(抗日民族統一戦線)となります。
(一説にはこれら日中の偶発的衝突はコミンテルンの陰謀とも言われています)
こうして始まった対日共同戦線ですが、
支那事変は国民党軍が中心で共産党は日本軍との衝突を避け兵力を温存します。

Chiang Kai-shek in full uniform
Mao Zedong portrait
蒋介石と毛沢東(出典:张振仕/天安門城樓上的毛澤東肖像)

第二次世界大戦~中華人民共和国の建国

現在では日中戦争と呼ばれていますが
当時は支那事変と呼ばれたように
第三国から支援を受けれなくなるのを避けるため
日中双方に宣戦布告せず「戦争」と認めませんでした。
実際、中華民国はナチスドイツから支援を受けていました。
上海事変により戦域は北支から中支に移動し、
7月の盧溝橋事件からわずか5カ月後の
12月に中華民国の首都である南京が陥落。
日本は対日和睦派の汪兆銘政権を承認しますが、
蒋介石国民党は南京からさらに内陸の重慶に移動し、
徹底抗戦の構えを崩さず、戦争は泥沼化します。

1941年、日本は真珠湾を攻撃して米英に宣戦布告。
支那事変は大東亜戦争に拡大します。
もともと蒋介石率いる国民党は米英
毛沢東率いる共産党はソ連が支援していました。
蒋介石がしぶといわけは東南アジアの援蔣ルートを通じた
米英の支援がありました。
日本軍が仏印進駐など東南アジアに進出した理由の一つは
援蒋ルートを遮断し、蒋介石を屈服させることにありました。

1942年のミッドウェー海戦の敗北以降、
太平洋では次第に日本が劣勢に立たされますが、
1944年からの日本陸軍の大陸打通作戦など
戦争終盤で防戦一方になりつつあった日本相手に
国民党軍は連敗を続けてしまいます。
日ソ中立条約で安全が担保されている
満州国からの物資供給も可能で、大陸では依然日本軍が優勢でした。

第二次世界大戦を戦う連合軍の中で中華民国の評価は下がり続け、
主要な会議にも呼ばれなくなっていきます。
太平洋でアメリカ軍が日本軍と死闘を繰り広げている中で
日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が満洲になだれ込みます。
カイロ宣言により満州は中華民国(国民党)に引き渡すことが約束されていましたが、
この間にソ連は満州の共産党支配を進めます。

そして日本が敗れると再び国共内戦となります。
満州に残された日本の資産や日本軍人、
武器を手にした共産党が国共内戦を優位に進め
ついに1949年、大陸は共産党によって統一されます。
共産主義国の「中華人民共和国」、今の「中国」が誕生しました。

一方、蒋介石国民党は海を渡り日本領だった台湾島へ逃れました。
日本はその後、サンフランシスコ条約により台湾島を手放したため
中華民国は台湾の台北に遷都をしました。
国民党と共産党は台湾海峡で何度か武力衝突を起こしましたが
この均衡は崩れることなく現在に至っています。

二つの中国

つまり現在、共産主義の大陸中華人民共和国、資本主義の台湾中華民国
二つの中国が存在しているのです。
「中国唯一の政権」であると互いに譲らず、
「一つの中国」という政策的立場により
諸外国はどちらか一方を国家承認しています。

冷戦当初、資本主義陣営の中華民国(台湾)を認めていたアメリカでしたが
中華人民共和国が核開発に成功、
中ソ国境紛争が発生、共産国家同士で争いが起こると
アメリカは一変、中華人民共和国と国交を結び、中華民国と国交断絶。
日本などの西側諸国を含め多くの国家がその流れに乗ります。
この経緯から日本は
北朝鮮民主主義人民共和国を認めず、「北朝鮮」と呼ぶように、
中華民国を認めず「台湾」と地域名で呼びます。
国連の中国代表権も中華民国から中華人民共和国に移され、
中華民国は国連を脱退。
大戦時存在すらなかった中華人民共和国が常任理事国の地位を手にします。
一方でバチカン市国やパラオなどの太平洋諸国は中華民国を国家承認し、
中華人民共和国を認めていません。

しかし、台湾は日本統治時代の資産をもって経済的に成長し
国交を結んでいない国とも準国家扱いを受けています。
日本とも経済的文化的交流は強く、
第二次大戦から関係の深いアメリカとは
台湾関連法によって実質的に自由主義陣営の同盟国です。
このように台湾海峡は朝鮮半島と同様に東西対立の最前線の一つでした。

台湾を置き去りにした首脳会談

今回の首脳会談によって台湾海峡の緊張関係は多少和らぐかもしれません。
しかし、台湾と中国の接近は慎重に見る必要があります。

日中韓首脳会談に習近平国家主席が出席せず
中台首脳会談に出席する様子を考えても
中国側からすれば日米を敵視し台湾を取り込もうとする戦略であり
台湾側からすれば経済的事情と任期が迫る馬英九総統の政治的判断もある。
来年一月の総統戦では与党の国民党から
共産党と距離を置く野党、民進党に政権交代される見通しなのですが・・・
その前に中国が何らかの手を打ってきたということでしょう。

従来から反日的な言動のある馬英九総統ですが
尖閣を巡って対日本の第三次国共合作などとならなければいいのですが・・・
沖縄問題に続いて東シナ海地域における媚中外交は注視する必要があります。

しかし、これはあくまでトップ同士の中国の政治抗争の面でしかありません。
台湾問題のほんの一面でしかない。
「中国と台湾はそもそも別だ」という視点から
もう少し掘り下げたいと思います。

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