日本近代史⑥~日本の躍進と中国の内乱~

第一次世界大戦後の日本周辺地図

パリ講和会議により世界大戦は連合国の勝利となります。
そして悲惨な戦争の反省を持って戦勝国中心に国際連盟が作られました。
世界は平和共存に向けて歩みだします。
しかし革命ロシアは世界から孤立
提唱国のアメリカはモンロー主義をつら抜いて加盟しませんでした。
日本はロシア、アメリカ不在の中、常任理事国の一国となり発言権を拡大します。
極東の小さな島国に過ぎなかった日本は
ついに世界の5大国(日米英仏伊)の仲間入りを果たします。

世界の植民地主義に歯止めがかかる中で、日本は人種差別撤廃提案をします。
これは国際会議の場で人種差別撤廃を明確に主張した最初の出来事でした。
賛成多数でしたが、多くの植民地を抱えるイギリスや
差別問題を抱えるアメリカが強硬に反対し否決となります。
まだ欧米では白人至上主義が根強くありました。

一方で日本はヴェルサイユ条約により、
正式にドイツ租借地の山東省租借権を獲得、
旧ドイツ帝国植民地の南洋諸島の委任統治を任されます。
委任統治とは国連の監視下で一定の非独立地域を統治する制度です。
これは民族自決原則を掲げ新たな植民地を持つ事を否定するアメリカと
植民地大国イギリスとの妥協の産物でしたが、
実質的には植民地とほとんど変わりませんでした。

戦後独立が許された地域が旧ロシア帝国化の東欧諸国に限られたこと
それ以外の中東、アフリカ、太平洋は
委任統治領と言う名目で再分割がなされたことから
民族自決精神が白人にのみ向けられたことは明らかでした。
そして戦争の全責任をドイツに追わせ、天文学的数字の賠償金を要求します。
この第一次大戦の処理の不手際が第二次大戦への原因となってゆきます。

日本は明治以来、坂の上の雲を目指し、ついに欧米に追い付いきました。
そして今度は世界を牽引していく立場として有色人種の代表を自覚し
新たな人種平等の国際秩序を作ろうとしたのです。
そこへ立ちはだかったのがアメリカでした。
民族自決を訴えたアメリカが
人種平等を訴える日本の提案を拒否した事はその象徴でした。
第一次世界大戦により主戦場となったヨーロッパが没落
反対に太平洋の新興国日本とアメリカが影響力を強めます。
太平洋において日本の台湾、南洋諸島、
アメリカのフィリピン、グアムと直接領土を接する事になり、
アメリカの利権を脅かすと米国内で排日運動が起き
対日移民禁止など日米関係の悪化へと繋がっていきます。

中国利権を狙うアメリカは
中国、太平洋に影響力を高める日本の封じ込めを画策します。
ワシントン会議を開いてアジア・太平洋地域の領土保全と軍縮を進めます。
四カ国条約が結ばれ日英同盟の破棄(満期更新せず)が決まります。
艦艇の保有数は英:米:日:仏:伊が
それぞれ5:5:3:1.75:1.75の割り当てなります。
日本は対米7割を求めましたが認められませんでした。
それでも仏伊よりも多くの保有が認められ
名実ともに世界3大海軍国となりました。

ワシントン軍縮会議は世界初の軍縮会議でした。
日露戦争の日本海海戦以来、
戦艦は衝角による接近戦から砲撃による遠距離攻撃が主流となり、
より大きく、より巨大な砲を持つ戦艦の建造競争が盛んになり、
イギリスのドレッドノート級の登場は
その動きを加速させていました。(大鑑巨砲主義
これらの軍拡は第一次大戦後ともあって各国の財政を圧迫していました。

Nagato (ship, 1920) - NH 2716 - cropped
ワシントン軍縮会議後のビッグ7の一つ超弩級戦艦の長門

会議の結果、アメリカがイギリスと同等の超大国となり、
アメリカにとって不都合な日英同盟を破棄させ、
イギリスとの衝突を避ける事に成功。
反対運動を受けて日本は山東省を中国に返還、
アメリカが長年に渡り要求していた
門戸開放機会均等はようやく国際的に認められることになります。
一方で日本はこの時同盟国不在となりました。
これ以降の国際秩序をワシントン体制といいます。
日本は国際協調に前向きでしたが、
最大の懸念は会議に1922年に誕生したソビエト連邦が入っていない事でした。
ソ連は四カ国条約を
極東諸国の民族解放運動に対して向けられた帝国主義国家の共同謀議と批判し、
中国ナショナリズムと共闘する構えを見せていたからです。

中国では袁世凱が死去すると主導権を巡って
いくつもの軍閥が争う内乱状態へと情勢が悪化します。
各軍閥に列強が肩入れをし構造が複雑化します。
満州に利権を持つ日本は張作霖などの奉天派(北洋軍閥)を支持し、
米英は南部に影響力を持つ蒋介石を支持します。
そしてソ連はコミンテルンを組織して中国共産党を支援します。

1927年に蒋介石国民革命軍と共産党が衝突し国共内戦が起こります。
1928年には蒋介石が北伐を開始し南京を獲得、
張作霖を追い詰め北京政府が崩壊。
この北伐は中国に権益を持つ日本や欧米諸国を刺激しました。
日本は邦人保護を名目として3度に渡る山東出兵を行います。
欧米はこの時点では日本を支援していました。

日本は協調外交を行いワシントン体制を順守していましたが、
中国情勢が不安定なまま1929年、世界恐慌が起こります。
英仏など広大な植民地を持てる国は
自国経済圏(植民地)のブロック化を図ります。
本国と植民地間で貿易をして他国との取引を排除するのです。
これは日独伊など持たざる国を圧迫しました。
持たざる国は状況を打開するため自国経済圏の拡大を目指します。
ナチス政権のドイツが領土復帰を掲げ、
オーストリア、チェコスロバキアを併合
イタリアはエチオピアに侵攻し新たな植民地を獲得します。

日本は張作霖が爆殺されて以降、(ソ連関与説有)大陸進出を進めます。
1931年には石原莞爾が満州事変を起こします。
1932年に清朝皇帝愛新覚羅溥儀を立てて
張作霖が支配していた地域に満州国を建国します。
満州国はアメリカ合衆国をモデルにした移民国家で、
五族協和(満日蒙漢朝)と西洋覇道に対する王道楽土が国是でした。

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「軍事の天才」と言われた石原莞爾
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「ラストエンペラー」溥儀

日本は朝鮮に続いて荒野の満州開拓に乗り出します。
これは経済圏の拡大であると共に
ソ連との間に緩衝地帯を作る意図がありました。

中華民国はこれを抗議し、連盟はリットン調査団を派遣します。
日本の満州における特殊権益は認められましたが
満州事変は自衛とは認められず満州国自体を否定するものでした。
この報告書が賛成多数で可決されたため
日本は協調外交の限界と考え、連盟脱退を決意します。
イギリスのエジプト(スエズ運河)、アメリカのパナマ同様、
資源の少ない日本にとって満州は生命線でした。

満州国の誕生はワシントン体制の崩壊を意味しました。
同時期、国内の政党政治も行き詰まり軍部の力が強くなっていきます。
「昭和維新」持って天皇親政を目指す
陸軍皇道派の将校たちがクーデターを画策し2・26事件が起こります。
陸軍将校は政府要人を襲撃し政府施設を占拠しますが、
天皇自ら反乱軍の鎮圧に乗り出し、
賊軍の烙印を押された反乱軍は投降します。
クーデターは未遂となり、皇道派は勢力を失い
日本の政治は東條英機などの統制派が実権を握るようになります。

1938年近衛内閣は世界のブロック化の中で
日満支の東亜新秩序声明を出します。
アジアにおける権益を脅かすと考えた米英は危機感を露わにします。

中華民国は北伐の成功によって
蒋介石によって統一されたかのようでしたが、
まだまだ完全統一とは言いがたい状況で、内乱状態は続いていました。
1937年に盧溝橋で演習中の日本軍に向けて中国側から発砲があり応戦、
中国軍と銃撃戦になります。(共産党による陰謀説あり)
戦闘は一先ず停戦し、日本首脳部も不拡大を主張しますが、
北京郊外通州で日本人住民が虐殺される事件(通州事件)が発生します。
尼港事件の再来でした。

日本国内の対中感情が悪化し、
「中国に憎し」「中国を討て」との声が沸き上がります。
日本はこれを期に軍部に支持が集まり
中国大陸の内戦に積極的に関わりはじめます。
戦線不拡大から一転、
上海事変から南京攻略戦へと戦線は北支から中支へと拡大していきます。

当時、支那事変と呼ばれた中華民国との戦いは
現在、日中戦争と言う名前で知られますが、双方とも宣戦布告がされず
実際には中国内戦の一部に近い性格でした。
日中双方も戦争という事で
第三国からの支援を受けずらくなる事を避けて戦争と表現しませんでした。
日本は多くの利権を中国に築いたために、中国の内乱に巻き込まれていきます。
国民党は援蒋ルートを通して
米英やドイツの援助を受け、日本の進軍に抵抗します。
共産党による散発的なゲリラ戦もあり、戦争は泥沼化していくのでした。

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