日本近代史⑦~日本包囲網~

AGAD Łamanie szlabanu granicznego
ポーランドの鷲の紋章の付いた国境ゲートをへし折るドイツ兵と国境警備隊

1939年、ドイツはソ連と不可侵条約を結びポーランドに侵攻しました。
反共のドイツとソ連が手を結んだことに世界は衝撃を受けます。
目的は第一次大戦により奪われた領土を回復する事でした。
ポーランド回廊により
ドイツの東部「東プロイセン」はドイツの飛び地となっていて、
回廊にもドイツ系住民が多数いました。
ナチスドイツはポーランドに回廊の割譲を要求しましたが、
バルト海への出口を塞がれてしまうポーランドが拒否していました。

ポーランドはドイツの戦車と航空機による電撃戦を受け東部に後退。
交戦を続けましたが、後ろからソ連軍が襲いかかり、
ポーランドは東のソ連領と西のドイツ領と分断されることになりました。
これは独ソ不可侵条約の秘密協定だったと言われています。
ウクライナの現状と非常に良く似た構図です。

ポーランド侵攻を受けて相互援助条約を結んでいた
イギリスとフランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まります。
ヒトラーは反共という立場から英仏は動けないと読んでいました。
一方で英仏がドイツのみ宣戦布告してソ連にしなかったのは、
条約自体が対独防衛であったこと、地理的要因、軍事力の問題。
そして反共のドイツとソ連は相容れないのでいずれ対立すると読んだため、
対ソ宣戦によって独ソが結びつくことを避ける政治的意図がありました。

反共の西の雄はドイツでしたが、東の雄は日本でした。
1936年に日本はドイツと防共協定を結んでいました。
同盟国不在の日本は同時期に連盟を離脱した独伊と同盟を結ぶ方向に動いていきます。

第二次大戦直前、満蒙国境でノモンハン事件が起こり
日本・満州とソ連・モンゴルが武力衝突します。
日本が満州を対ソ防壁としたように、
ソ連はモンゴルを共産化して対日防壁を築き上げていました。

ノモンハン事件はソ連戦車の威力により日本の惨敗だったとされていましたが、
最新の情報によるとソ連もかなり苦戦したと言われています。
特に空の戦いでは日本の単葉機九七式戦闘機がソ連の複葉機I-153やI-16相手に活躍しました。
この時期を境に戦闘機は引き込み足を採用した全金属製の近代的な単葉機に移っていきます。

Ki-27 Type97
陸軍初の低翼単葉戦闘機 九七式

ノモンハン事件はソ連の脅威を明確に表していました。
1939年の第二次大戦開戦直後、日本はヨーロッパ不介入を宣言しますが、
ドイツの破竹の進撃を見て「バスに乗り遅れるな」をスローガンに
1940年に日独伊三国同盟が結ばれます。
この対ソ戦略の考え方を北進論と呼び、陸軍、関東軍の伝統的考えでした。

アメリカは日本が三国同盟を結んだ報復として屑鉄の対日禁輸を決定します。
そしてソ連は日独と両面戦争を避けるため世界中でスパイ活動を活発化させます。
日本にはゾルゲ機関を作り政府中枢に近づき、
国家戦略をドイツとともにソ連を討つ北進論から
中国攻略と資源確保のための南進論へと誘導し、
1941年の日ソ中立条約を結ぶに至ります。
ソ連のスパイはアメリカのルーズベルト政権にまで及び、対日強硬路線を突き進みます。

Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-1
日ソ中立条約調印時の様子。著名する松岡外相の隣にはゾルゲ機関の尾崎秀実がいる。

日本は強力な反共国家であったため
治安維持法でスパイや共産主義者を検挙しましたが、
日本の構想は世界恐慌後の世界ブロック化は
ドイツのヨーロッパ圏、ソ連の共産圏、南北アメリカ圏、日本のアジア圏
この4つのブロックになると読み、日独伊三国にソ連を加えた4国協商により
中国問題で圧力を加えるアメリカに対抗しようという戦略でした。

しかし、わずか二ヶ月後にドイツが日本に無断で
独ソ戦を開始したため計画は破綻します。日本の外交努力は裏切られ続けます。

大東亜戦争直前の世界情勢

支那戦線は泥沼化していました。
日本は日本占領下で成立した対日和睦派であった汪兆銘南京国民政府を承認します。
一方、国共合作してまでも対日徹底抗戦を訴える重慶の蒋介石国民党軍の裏には
東南アジアから伸びる援蒋ルートを通して米英の援助がありました。
特に仏印の援蒋ルートは大きく、
日本は援蒋ルート遮断のためヴィッシー政権の北部仏印に進駐します。
ヴィッシー政権はナチスドイツ占領後のドイツ傀儡政権でこれを認めます。

日本は重要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規制を受けて
オランダに資源提供を求めますが交渉が決裂。
連合国であるオランダは対日輸出規制に参加する可能性があったので
蘭印に圧力をかけましたがこれが裏目に出た形です。
こうしてABCD包囲網が構築されていきます。

日本は北部仏印進駐の反発が少なかったことから南部仏印進駐を決めます。
自力で資源を確保できる上、東南アジア地域における重要な要地であり、
さらなる援蒋ルートの遮断も行えると考えられました。
アメリカは仏印をイギリス・オランダ・中国・日本・アメリカによって
中立化させる案を提案していましたが、
日本は仏印進駐を支那事変が完結するまでの平和的処置として拒否しました。

米英は日本の思惑とは別に
南部仏印進駐はヨーロッパにおけるドイツの作戦と呼応していると考えていました。
南部仏印進駐によってアメリカは対日資産凍結と対日石油全面禁輸を決めます。
日米対立は決定的となりました。

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