チュニジアの首都チュニスの観光地としても有名なバルドー博物館で
イスラム過激派による襲撃事件が発生した。
チュニジア当局によると外国人22人が死亡し、
国籍別の犠牲者は、日本が最も多いとされ、
その数は5人や3人が死亡、3人負傷など情報は錯そうしている。
ISIL邦人拘束事件に続いてまたしても日本人が犠牲になった。
今回の事件もISILが犯行声明を出している。
外国人を狙ったテロである事はまず間違いないが、
その中でも日本人犠牲者が目立つ。
テロが無差別であったのか
日本人を標的にしていたかは今後の捜査が必要になる。
日本人が標的となっていたのであれば
ISILの日本人に対する宣戦布告を深刻に受け止めなければならない。
そうでなくとも現実として邦人が犠牲になっている以上は
邦人保護の観点からそれに見合った対策を講じるべきである。
チュニジア国旗 |
チュニジアは2011年に以後「アラブの春」と言われる
アラブ世界の民主化運動の発端となった
「ジャスミン革命」が起こった国である。
イスラム国家の中でも世俗的な国家であり、
アラブの春の民主化の成功モデルとされていたが、
政変に乗じて過激派が入り込んでいた可能性は否定できない。
ISILに参加する外国人戦闘員の中で
チュニジア国籍は圧倒的な比重を占めており
帰郷した戦闘員によるテロという潜在的脅威がある。
もはや言うまでもないが、海外における日本人の安全は守れていない。
日本人が危険な目に会わないために確固たる「抑止力」が必要である。
日本が戦後の一国平和主義から一刻も早く離脱する事が
世界平和の貢献に繋がる事は目に見えており
日本ほどの経済力のある国家が
世界の安全保障に対して責任が少なすぎるのが問題だ。
戦後の日本の状況に非常に似ているのが「カルタゴの平和」である。
カルタゴ遺跡(出典:Calips – 投稿者自身による作品) |
チュニジアにはカルタゴという古代都市が存在した。
カルタゴはローマと地中海を挟んで三回に渡るポエニ戦争を戦い敗北した。
特に紀元前202年、第二次ポエニ戦争で
ハンニバル将軍率いるカルタゴ軍は致命的敗北を喫した。
領土の没収、武装解除、自衛を含む対外戦争の禁止、
銀1万タラントを50年に分けて支払う賠償金。
500隻の軍艦が、市民の面前で焼き払われた。
しかし貿易によって見事に戦後復興を成し遂げ
戦後賠償も完済し、平和主義の経済大国となった。
だが、その経済力を将来的な脅威だと考えたローマ帝国により
完全にカルタゴの都市は破壊された。
カルタゴが再び復活することがないように、
カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。
陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、
捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。
カルタゴの土地には
雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれた。
「カルタゴ帝国の衰退」J. M. W.ターナー(1817) |
ハンニバルはローマの意図を読み
祖国の危機を訴えたが、平和ボケした民衆は聞く耳を貸さなかった。
これが日本の未来に見えて仕方がない。
日本一国が平和であってもグローバル化するテロの時代には無意味である。
混乱は外から押し寄せてくる。
カルタゴやチュニジアでの出来事を我々は十分に検証すべきである。
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