日本古代史②~大和政権の誕生~

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弥生時代

日本列島にはすでに縄文時代に大陸からがもたらされ
小規模な栽培が行われていましたが、
紀元前四世紀ごろに、大陸から灌漑用の水路をともなう水田を用いた
稲作の技術が九州に伝わりました。
縄文土器より実用的な土器、弥生土器が作られ、
稲作と共に全国に広がっていったこの時代が弥生時代です。

東京都大田区久ヶ原出土 壺形土器.JPG
Saigen Jiro東京国立博物館展示。撮影可能下でSaigen Jiroが撮影。

 

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弥生時代は縄文時代とはうって変わり、争いが頻発しました。
稲作により、人々は稲作に適した平地に住むようになり、
共同で作業をするうちに、ムラ(村)を作って生活するようになり、
共同作業を指揮し、
祭りを取り仕切る指導者が現れ、身分の差が生まれました。
ムラ同士の交流も盛んになる一方で、
水田や収穫物を巡って争いが多発しました。
ムラには柵が作られ、稲作と共にやってきた青銅器や鉄器も手伝って
人々は武器を持ち戦うようになりました。
数々の交流や戦いを経て、
やがてムラがまとまってクニ(国)が生まれます。

現在の日本に繋がる「クニ」はいつ頃から存在したのか、
あまり詳しいことはわかっていません。
基本的には大和政権が成立した4世紀頃と言われていますが、
我が国最古の歴史書である「日本書紀」によると
神武天皇(最初の天皇)が即位したのが、
紀元前660年2月11日であり、
これが、日本の建国に位置づけられています。
我が国の建国記念日もそれに従っています。

紀元前660年と言うと弥生時代前期にあたります。
これは現存する世界最古の国家と言うことになります。
戦前はその建国紀元を基にした神武暦(皇紀)
ごく一般的に使われていました。
西暦に660年足した年号なので、
西暦2017年の今年は皇紀2677年と言うことになります。

現在では、皇国史観の否定考古学的観点により、
あくまで神話上の建国であると認識されていますが、
アメリカ中央情報局(CIA)のサイトでは日本の項目で
はっきりと紀元前660年に建国されたことが明記されています。
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2088.html

戦前の歴史教科書は神武歴を中心としており、
考古学的歴史区分である縄文、弥生、古墳、
そして飛鳥時代もなく、いきなり大和時代から始まっています。

正史と認められている事は、
それらのクニの一部は
古代文明が発祥した中国に朝貢していたという事です。
その頃、すでに中国には皇帝をいただく
強大な秦や漢のような国家が広い大陸を支配しており、
周囲の諸国に対して臣従を求め、それに応じて朝貢してきた諸国に対して
中国配下の王であることを承認した印を授ける
政治的制度(冊封)がありました。
印にはそれぞれランクがあり、
中国から「倭」と呼ばれた日本には
「委奴国王」に最高ランクの金印を授けられました。
(ちなみに朝鮮や琉球には銀印が授けられた)
3世紀に入ると、30ほどの小さな国家を従えた
卑弥呼が統治する強国「邪馬台国」が存在し、
魏に使いを送り、再び、親魏倭王の称号と金印を授かりました。

この頃の中国と日本は、今の反対で、
中国のほうが進んだ文明を持っており、
周辺諸国と同じく、日本も中国の冊封体制の中に組み込まれました。
日本はその後も中国の影響を大きく受けました。
しかし、印の位より日本が中国から特別な目で見られていたことは、
注目すべきところです。

古墳時代

日本史最大のミステリーの一つ
「謎の4世紀」と呼ばれるものがあります。
4世紀を境に日本列島が一変してしまうのです!

弥生時代の祭祀用具の代表であった「銅鐸」が製造中止。
青銅が中心だった金属器も、「鉄器」が使われるようになる。
更に、彫りが深くがっしりした縄文人に近かった体型が、
彫りが浅い大陸系の体型に変化し、
なぜか、それまで行なわれていた「入れ墨」の習慣が消滅。
一番顕著なのは墳墓の変化で、
それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳など複雑な形になり、
巨大な墳墓が発生します。
これら古墳が頻繁に作られた時代を古墳時代と言います。

巨大な墳墓ができたと言うことは強力な権力が台頭したことを意味します。
大和政権の成立です。
どのようにして大和政権ができたのか?
それまで日本の大きな勢力であった邪馬台国との関連性は?

実はよくわかっていません。
この頃、中国では内部分裂が起こり、
それまで中国の史書にあった倭国の記述が見られなくなったのです。

元々、日本列島に馬は存在しませんでしたが、
この頃から「馬具」や「埋葬された馬の骨」が大量に出土され、
中国や朝鮮で見られる遺物も出土することから、
大陸から馬を引き連れた民族が日本を平定したのが大和政権の由来だとする
騎馬民族征服王朝説があります。
大和政権が完全なる異民族によるものなのか疑わしいですが、
大陸から人為的に馬が持ち込まれたのは間違いないようです。

NintokuTomb
(出典:国土交通省)

仁徳天皇陵は日本最大の古墳であり、
底面積においてはギザのピラミッドや始皇帝陵を上回って
世界一の墳墓でもありますが、
宮内庁によって何故か発掘禁止にされ、
現在に至るまで学術調査は一切行なわれていません。
これが発掘されれば空白の4世紀が明らかになり、
世界史が大きく変化する可能性があります。
でも…謎は謎のままにしたほうがよいのだろうか…^^;
「邪馬台国論争」にしても「謎の4世紀」にしても、
やはりこの時代も大きなロマンがあります。

また、この頃は中国の影響力が低下した事で、
冊封を受けていた諸外国で、統一国家への動きが強まりました。
日本では大和政権、朝鮮でも北部に高句麗、南部に百済、新羅が誕生し、
朝鮮三国時代という時代になります。

高句麗がそれまで中国の領土でしかなかった朝鮮半島北部を支配し、
南部の百済にも攻撃しました。百済は大和政権に助けを求めました。
日本列島は古来から鉄の資源のある朝鮮南部と交流があり、
朝鮮南部の任那(加羅)に拠点を築き、
百済を助け、高句麗の南部侵攻を食い止めました。
5世紀中頃に、中国では南北朝時代になり、
大和政権は高句麗と対峙して、
朝鮮南部との繋がりを維持するために南朝に朝貢しました。
そのころには大和政権はさらに勢力を拡大し、
百済と新羅は大和政権の臣民になりました。

6世紀になると今度は新羅が勢力を伸ばして任那を滅ぼし、
大和政権は朝鮮への足がかりを失ってしまいますが、
「日本書紀」に神功皇后が朝鮮を平定し、
臣下にしたという「三韓征伐」の話があるように
古来、朝鮮半島に日本の支配が及んでいたことは理解すべきです。
秀吉の朝鮮出兵、西郷隆盛の征韓論、昭和期の日韓併合などの出来事が
単なる突発的な政治判断ではなく、
この頃の時代にまでさかのぼれると言うことです。

この時代、大和政権が朝鮮半島の政治に積極的に関与した結果、
朝鮮半島を通じて、中国の進んだ文化が日本にもたらされました。
文化と共に中国・朝鮮から日本に移り住む帰化人が出てきました。

現在の日教組教育では帰化人は「渡来人」と表現されますが、
これは帰化という言葉に現地人と同化する意味合いがあるため
在日朝鮮人などの抗議を受けて
進んだ文化を遅れた地域に伝えるという意味合いで作られた言葉です。
日本の歴史なので主体が日本なのは当然であり、
実際百済は消滅したのだから史実でも帰化が正しいのですが・・・

6世紀には百済王から
仏像と経典を大和政権に献上され、日本に仏教が伝わりました。
その仏教という外国の異教、
そして隋による300年ぶりの中国統一による勢力図の変化が、
この後の日本の歴史をさらに動かしていくことになります。


弥生時代から古墳時代にかけて、
日本列島は中国大陸からの影響を受けつつ、統一国家を建設していきました。
現存する世界最古の国というのは、
君主である天皇による統治が続いていることにあります。

天皇が紀元前660年の弥生前期から存在したかは不明ですが、
第10代崇神天皇や第15代応神天皇からは実在の人物だろうとされています。
そのことを想定しても、世界最古の王朝である事は疑いようがなく、
天皇は世界最古の王朝であり、日本は現存する世界最古の国家となるわけです。

世界の他の王室はフランスのように王制が廃止されるか、
存続しているとしてもイギリスのように
テューダー朝、ウィンザー朝など途切れているのが大半です。
日本では武士が台頭しても、明治維新をしても、
天皇は現在にまで万世一系且つ男系男子で途絶えることなく続いています。

戦後の教育界、考古学会では
皇国史観の否定や神武歴の廃止により、皇室の権威が薄められ、
「騎馬民族征服王朝説」「渡来人」など日本の価値を落として
稲作、仏教、律令制などをもたらした中国、
朝鮮半島を必要以上に持ち上げる傾向にありますが、
金印一つとってみても
日本が中国から特別な地位を与えられていたことは明らかであるし、
日本が朝鮮半島南部に影響力を保持し、
中国と対等に渡り歩いたのは歴史的事実です。
そして、なにより今日に至るまで天皇を守り続けている事が
日本国の権威に繋がっているのです。

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