日本古代史⑥~桓武天皇と千年王国~

延暦13年(794年)に桓武天皇平安京に都を移してから
鎌倉幕府が成立するまでの約390年間が平安時代です。
平城京が置かれたのに平城時代と呼ばず「奈良時代」なのに
「平安時代」のことを京都時代と呼ばないのは
奈良時代が平城京のみならず頻繁に遷都されたのに対して
平安京は、平安時代を通して政治上ほぼ唯一の中心であり、
尚且つ明治時代まで京都に朝廷が置かれ
一定の政治機能を有しているためです。
京都が千年の都と呼ばれる所以もここにあります。

平安時代の約390年は265年間の江戸時代よりも遥かに長い時代です。
平安という名前から江戸時代同様、
平和で安定した政治が続いたと思われがちですが、
江戸幕府によって高度に統制された江戸時代と違い
この時代区分は便宜的なもので
実際には約390年のうちに大きな変動があり、
大きく三つの時代に分けることができます。

  • 平安時代前期 天皇親政、唐風文化
  • 平安時代中期 摂関政治(藤原氏支配)、貴族(国風)文化
  • 平安時代後期 院政、武士台頭(平氏政権)

それぞれ律令時代、王朝時代、武家時代と言えるかもしれません。
平安末期はこのまま源平合戦となり、
平家滅亡、鎌倉幕府成立となり、鎌倉時代に突入します。
平安時代後期は古代ではなく中世に当たると言われています。

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平安時代前期

Emperor Kammu large
「桓武天皇像」(延暦寺蔵)

第50代桓武天皇の即位は大きな歴史の流れを見ると
壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が大海人皇子(天武天皇)に敗北して以来
完全な天智系の復活を意味します。
父の光仁天皇の即位によって天智系の天皇自体は復活しますが、
依然として天武系の影響力は強いままでした。
既に62歳と高齢だった光仁天皇の即位の決め手も
夫人の井上内親王聖武天皇の第一皇女
その間に生まれた他戸親王天武の血を継ぐ男子であり、
他戸親王を将来の天皇とするためでした。
山部王(桓武天皇)の母は百済系の渡来人で身分も低く、
異母兄弟の他戸親王と比べると出自として弱っかたのです。

しかし、井上内親王が光仁天皇を呪ったという事で皇后を廃され、
他戸親王も皇太子を廃された上、
光仁天皇の姉難波内親王の死も二人の呪いという疑いがかけられ、
朝廷を追放され庶民として幽閉されます。
そればかりかその幽閉先で不可解にも二人同日に死亡します。
こうして山部王が皇太子となり将来の天皇の座を射止めます。
これは九州で挙兵して鎮圧された藤原広嗣の弟である
藤原良継、藤原百川など
藤原式家による策略であったと言われています。

聖武天皇の鎮護国家の政策により仏教勢力が朝廷内部に浸透し、
称徳天皇の元で道鏡法王という地位に付き、
天皇に匹敵する権力を保持するにまで至り、
天皇による中央集権、律令国家体制は弱体化の一方でした。
桓武天皇は天武系の都であり、
仏教の影響力の大きい奈良・平城京からの遷都を望みます。
平安京の前にまず長岡京(現京都府長岡京市)に遷都します。
これは桓武天皇の物資の運搬に便利な大きな川がある場所という希望から、
桂川や宇治川などの大きな河川が合流する淀川が付近にあること、
そして長岡京造宮使として遷都事業を推進した
藤原式家の藤原種継の実家があり、
姻戚関係にあった渡来系の秦氏の拠点であるなど、
天智系の桓武天皇の支持基盤があることが挙げられます。

秦氏日本最大の渡来集団であり、
百済系渡来人という説、秦の始皇帝の末裔であるという説、
アッシリアから来た失われた10氏族(ユダヤ人)であるという説まで有り
出自ははっきりしていませんが、
優れた土木、養蚕、機織などの技術を持って朝廷を補佐し、
平城京から見て奈良山の向こうにあったことから「山背国」と呼ばれた
京都を開拓し、長岡京や平安京遷都に大きく貢献しました。
藤原氏が強大な権力を保持したのに比べ、
渡来人である秦氏はあくまで歴史の裏方といったところですが、
平城京が藤原氏の都とすると、
長岡京、平安京は秦氏の都と言えるのではないでしょうか?
東映京都撮影所のある太秦秦氏の本拠地として知られています。

藤原京から平城京の遷都と大きく違うのは
寺を移築せずに奈良に放置したことです。
桓武天皇は天台宗や真言宗という新しい仏教を保護する一方で
寺を比叡山高野山など都の外に置きます。
奈良仏教は都市仏教でしたが、平安仏教を山岳仏教とすることで
仏教勢力が政治中枢に入り込む事を防いだのです。
しかし遷都間もなく種継が暗殺されてしまいます。
この暗殺事件に関わったとして実行犯とは別に
桓武天皇の皇太弟である早良親王がその地位を廃され、
淡路国に流罪となります。
桓武天皇による遷都の目的が仏教から距離を置くことであったため、
東大寺など南都寺院と繋がりの強い早良親王が
遷都阻止のため暗殺を企てたと疑いをかけられました。
一節には桓武天皇が実の息子である安殿親王に
皇位を継がせるため都を追放したとも言われています。
早良親王は無罪を主張するため絶食し、
淡路国に配流される途中に憤死します。

その後、新たに皇太子に立てられた安殿親王の発病や、
桓武天皇妃の相次ぐ病死、伊勢神宮正殿の放火、疫病や洪水が起き、
陰陽師により早良親王の祟りであるとされたため、
桓武天皇は遷都わずか10年にして
平安京(現京都府京都市)へ二度目の遷都を行い
早良親王は皇位継承者ではなかったものの崇道天皇と追称されます。

Daidairi of Heiankyo
平安京大内裏復元模型(平安京創生館)

京都が選ばれた理由は奈良同様に
東に鴨川、西に山陰道 南に巨椋池、北に船岡山という
四神相応の地と考えられたのと同時に
長岡京と同じく陸路だけでなく
水路としても優れた機能があると考えられたからです。
天智天皇陵が京都に近い山科盆地にある事も
何らかの関係があるかもしれません。
桓武天皇は平安京の命名後、
山と川に囲まれ自然に城を成す事から
都の置かれた「山背国」を「山城国」に改名します。

また桓武天皇は王威の発揚のため、
当時日本の支配外にあった東北地方の蝦夷征服を行い
坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しました。
このように絶大な権力を振るった桓武天皇を後押しした藤原式家は、
藤原乙牟漏を桓武天皇后とし、天皇家と外戚関係を築き、
朝廷内の権力を強めますが、それは長く続きませんでした。

桓武天皇の死後、子である安殿親王が平城天皇として即位します。
平城天皇も桓武天皇同様に積極的に改革を進めましたが、
弟の蘇我天皇に譲位し、平城上皇として旧都、平城京に身を移すと
式家の藤原薬子が介入し、
平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って
平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りました。
嵯峨天皇は薬子の官位を剥奪。
平城上皇らは挙兵し、東国へ入ろうとしますが
征夷大将軍の坂上田村麻呂に阻まれこのクーデタは失敗します。
この薬子の変の結果、平城上皇は仏門に入り、
薬子は服毒自殺、式家は没落します。

平安時代に入っても朝廷内では紛争がありましたが、
奈良時代に比べるとまだ平和でした。
薬子の変は武力衝突となりましたが、
以降は12世紀中葉の平治の乱まで中央の政治抗争は武力を伴わず、
死刑も執行されない非武力的な政治の時代
永らく続くこととなります。
天武系を支配した藤原氏の影響力が天智系の復活により縮小したため、
桓武天皇以降しばらく純粋な天皇親政が続く事になりますが、
強大すぎる桓武天皇を失い、
式家が没落したことで必然的に次なる権力抗争が待ち構えていました。




桓武天皇二度の遷都を行い、東北を治めて領土を拡大するなど
歴代天皇の中でも大きなリーダシップを発揮しました。
中国から伝わった天台宗や真言宗などの密教を保護したり、
平安時代前期は奈良時代の国風文化から一変して
唐朝の影響の強いものでしたが、
これも律令国家として不完全だった平城京(奈良時代)の反省もあると思います。
平安京が後の武士の時代になっても存続し続け、
現在もほぼそのまま主要都市として残っていることを考えると
日本史における桓武天皇の存在感はかなり大きいと言えます。

桓武天皇にまつわるエピソードとしては
今上陛下が日韓W杯に対するお言葉の中で
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、
『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」

と発言した事があります。
国内よりも韓国で大きな話題となり、
「皇室は韓国人の血筋を引いている」
「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」
など
発言意図から逸脱した報道も多く行われましたが、
何度も言うように百済人の多くは日本に帰化し、
現在の朝鮮民族と百済人には殆ど繋がりはありません。
一方、韓国では百済人の地であった全羅道出身者への差別があります。
全羅道出身だった当時の金大中大統領が陛下のお言葉を受けて
年頭記者会見でわざわざ歓迎の意を表したのは
こうした韓国社会の背景も見えてきます。

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