9月3日、菅義偉総理が今月行われる自民党総裁選に不出馬の意向を固めました。
こうして菅政権は約1年終了し、
総裁選の結果によって新しい内閣総理大臣が誕生する事になります。
相変わらず、野党は突然の退任表明を
「コロナ禍にあって政治的空白を作り無責任だ」と批判していますが、
総裁の任期満了を持って辞める訳であって、的外れな見解だと思います。
二階幹事長に出馬の意思を伝えていたという報道もあったため、
このニュースは驚きを持って伝えられましたが、
現在の低迷する支持率で衆院選を戦い抜けるのか?
という部分で菅政権を懐疑的に見ていた人は党内部にもいたのでしょう。
菅総理はコロナ対策に集中する事を退陣の理由に挙げています。
菅内閣の総括
菅内閣はまたしても第二次安倍政権以前の短命政権となってしまいました。
その事自体は私自身も遺憾に思います。
安倍長期政権では様々な問題を孕みつつも、
厳しい国際情勢の中、うまく立ち回ってきた事を考えると
外交的にも経済的にも短命政権というのは長期的戦略による施策が取れず、
未来像が展望できないため良い事とは思えません。
ただ、不確実要素の多いコロナ禍ではどの国でも苦戦していますし
有効な長期戦略の存立そのものが難しい状態ではあります。
そもそも菅政権は当初から選挙までの中継ぎだと言われてもいました。
安倍前総理の持病悪化による突然の辞意を受けて、
安倍政権下で官房長官を務めた菅総理が
ピンチヒッターという形で安部路線を引き継ぎました。
菅総理の独自色と言えば
携帯電話料金の値下げやデジタル庁創設などの改革路線が挙げられます。
安倍総理が代々の世襲政治家だったのに対して
秋田の農家から単身上京し、総理大臣にまで上り詰めた
叩き上げの実力派であったこともあり
クリーンなイメージもあって当初は大きな期待を寄せられていました。
しかし、このコロナ禍で東京オリンピック・パラリンピックを開催。
大会自体は大きな混乱もなく日程を終えましたが
開催の是非やその準備段階では課題が残る結果となり、
また会期中にデルタ株によって新型コロナウイルス感染者数が過去最悪となり、
相次ぐ緊急事態宣言や自粛要請で国民が疲弊する中、
マスコミは感染拡大の責任をデルタ株ではなくオリンピック開催に求め、
小池百合子東京都知事も責任を政府に丸投げしたため、
その諸々の批判を菅総理が一身に受ける結果となってしまいました。
結果はともかく、
バイデン大統領と外国首脳として初めて対面会談し、ワクチンの大量確保に成功。
新型コロナの感染が急拡大した台湾にワクチンの無償提供を決めたり、
アフガンにおけるタリバンの政権掌握の際には
邦人の退避のために自衛隊機の派遣を決めたりと
今までの政権では無かったような素早い決断を下すなど
実務的な才能もあり、評価できる点も多いのですが、
もともと口下手なのか表現力に乏しく、なかなか国民の心には届きませんでした
最終的にはコロナ対策の失敗によって全部持っていかれたような印象です。
この状況下では誰が総理大臣であろうと
高い支持率を維持するのは難しかったのかもしれません。
ひとまずはこの厳しい状況下で総理大臣を引き受け、
最前線で陣頭指揮を取ってくれた菅総理には感謝すべきでしょう。
引き続きコロナ対策に力を入れていくそうなので、
安倍前総理ともども今後も日本のために頑張ってもらいたいです。
ポスト菅
菅総理の退任表明を受けてポスト菅の動きが急加速しました。
いち早く出馬表明をした岸田文雄元政調会長の他、
河野太郎行政改革担当相も出馬の意向。
石破茂元幹事長にも出馬を求める声があり、
高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行も出馬に意欲を見せています。
前回の総裁選で菅氏には負けたものの僅差で石破氏に勝利した
岸田氏は満を持して真っ先に手を挙げたわけですが、
信頼も厚かったはずの安倍前総理は無派閥の高市氏支持へ回り、
若者向けのファッションイベントにもオンラインで参加し、
国民の好感度も高い河野氏ですが、
自らが属する麻生派の麻生副総理兼財務相などからは「まだ早い」と支持されておらず、
一方で石破氏が出馬の意思を明確にしない中、
石破派の中からは河野氏を推す意見も出始めるなど
従来の派閥争いに終始しない展開となっており、
候補者がかつてないほどに乱立する中、
派閥があまり動かないため自民党内の党員票が大きな鍵になります。
そういう意味では忖度なしで、
本当に選挙に勝てる顔を選ぶことが出来るとも考えられます。
第100代内閣総理大臣
さて、そんなこんなで日本の総理大臣も
初代総理大臣の伊藤博文から数えて次の総裁選で選ばれる
自民党総裁が第100代目となります。
内閣制度にとって記念すべき存在であると言えますが、
ここでふと思い起こされるのが百王説です。
どんな王様も100代までで滅びるという説で、
実際に天皇も第96代後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕から
足利尊氏の反乱により、北朝が建てられ、
天皇が二人存在する南北朝時代に突入し日本が混乱に陥った時代がありました。
結局、後に南北朝は和解し、第100代後小松天皇が即位するのですが、
南朝、北朝交互から天皇を出すという取り決めを無視して
以後は室町幕府の傀儡とも言える北朝による皇統が続きますが、
正統とされる南朝は抵抗をつづけるも徐々に勢力を弱めてしまいました。
国会議事堂の中央広間の四隅には、
議会政治の基礎を作るために功労のあった人物の銅像があります。
これは、1938年に大日本帝国憲法発布50年を記念して作られました。
板垣退助は明治の初めに国会の開設を求め自由民権運動を起こし、
日本で最初の政党である自由党の党首をつとめました。
大隈重信は日本で最初の政党内閣の総理大臣で、
立憲改進党の党首として議会政治確立のため活動しました。
伊藤博文は日本で最初の内閣総理大臣であり、初代の貴族院議長です。
大日本帝国憲法の起草の中心的役割を果たしました。
4つ目の台座には銅像がありません。
一説には4人目を人選できず将来に持ち越されたとも言われています。
国民の政治離れから政治家不要論、
または国民投票による大統領制を望む声もあります。
4つ目の台座が空白のまま内閣制が終わることがあるのでしょうか?
記念すべき100代目の総理大臣には
引き続きコロナ対策に力を注ぐのは勿論の事
ぜひ4人目の銅像になるつもりで頑張ってもらいたいと思います。
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